新刊「80年代サーガ」のための素描〜「渋谷系」までのレッスン(2)〜


 フリッパーズ・ギターもといロリポップ・ソニックというバンドは、私のいた『TECHII』(音楽之友社)という音楽雑誌の編集部から間接的に生まれた。そこにいたIさんという女性が、グループ結成時のリーダーなのだ。書籍『都市の音楽』は牧村憲一との対話で進んでいくが、バンドとプロデューサーが出会う前の時期のことは、私視点から綴ってる。目白の編集部の深夜作業の合間、ミントレコードから送られてきた『アタック・オブ・ザ・マッシュルームピープル』のサンプルカセットを休憩中に聴いて、Iさんと私はノックアウトされた。あれがすべての始まりだった。バンド結成について語れる立場じゃないのでそれ以上は触れないが、自分が80年代末〜90年代を「第2の青春」と言うのは、それほど様々な出会いがあったのだ。
 『TECHII』が創刊する1年前の1986年に、まだ10代だった私は雑誌編集者としてキャリアを開始する。当時はアニメ雑誌の編集者をやっていた。ザ・テレビジョンという会社から出ていた月刊『ニュータイプ』(現・KADOKAWA)である。創刊して2年目ごろ。初期は『ザ・テレビジョン』の定期刊行増刊誌の名残をまだ残していて、『ザ・テレビジョン』編集部の片隅にあった会議テーブルが仮編集部になっていた。全員入るとパンクするので、編集会議は飯田橋のレンタル会議室で行っていた。メイン記事はそこが拠点となり、それ以外は早稲田にあった編集プロダクションが分室になっていた。ここで私は全アニメを毎日録画予約、制作会社からシナリオをもらって近所の早稲田の学生にレジュメ発注するのが日課だった。一番年下の新人だったので、昼は資料集めのケータリングで一日が終わり、夜はこもって原稿書いていた。
 アニメに詳しくないじゃんかは愚問である。当時『ニュータイプ』はサブカル雑誌だった。編集後記にムーンライダーズや有頂天のこと書いても怒られなかった。創刊編集長のSさんは美術雑誌の編集者だった人。競合のアニメ専門誌が5、6誌あったが、いずれもファン上がりのプロパーが中心だった。『ニュータイプ』は外からやって来た黒船だった。中とじ大判で「丸めて持ち歩けるお洒落なアニメグラフ誌」が、企画書に書かれてた造本コンセプト。「アニメ雑誌を持ち歩くのは恥ずかしい」と言われた時代に、ファンに優しい雑誌だった。「アニメなんとか」じゃない雑誌名は、創刊時は周りに大反対されたらしいが、結果それがサンライズから優先的にガンダム情報を回してもらえる、競合と差を付ける武器になった。創刊編集長は「『アニメージュ』を部数で超えたら編集長辞める」と公言していたが、本当に老舗誌を部数で超え、Sさんは編集長を辞めた。
 皇室の紀宮様が大のアニメファンで『アニメージュ』を定期購読していたが、皇室には1ジャンル=1雑誌の決まりがあって。『アニメージュ』を追い落として『ニュータイプ』読者になってもらう野望もあったが、サーヤ様は『アニメージュ』後半モノクロの、チェコアニメやアニドウ系記事も読まれるハードコアなアニメファンで、在職中には叶わなかった。
 あまりにアニメのことを知らないんで、私は入ってすぐに戦力外通告され、もっぱら音楽記事やアフレコ取材をやっていた。後に漫画家のとり・みきさんらとの共著で、日本で初めての声優の単行本に書いてるのはその縁。
 80年代半ばぐらいまでは、妙齢のご婦人がベテラン声優としてアイドル的人気を集めていた。ライバル誌は編プロの編集者がポケカメで撮影して記事化していた。『ニュータイプ』は『ザ・テレビジョン』専属の社カメが使えたんで、現場の声優陣の反応が少しよかった。女性声優にヘアメイク、スタイリストを付けてスタジオ撮影したのは『ニュータイプ』がはしりだと聞いている。それぐらいぞんざいだった声優取材を、きちんととスターとして扱ったのには先見の名があった。「声優ブーム」が後にアニメ市場全体をひっぱっていくことになるなど、当時は予想もできなかった。(つづく)


当時の『ザ・テレビジョン』『ニュータイプ』発行人だった井川浩さんの自伝。

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