新刊「80年代サーガ」のための素描~「渋谷系」までのレッスン(4)~

 今から40年前、1986年に『ニュータイプ』で初めて雑誌編集者になった。最初はごく普通に番組ページを担当していた。そのころ『ニュータイプ』は描き下ろしイラストのカラーページで定評を得ていた。通常、制作会社から貰ってきた16ミリのデュープから切り出して、他誌などはカラーページを構成していたが、元が16ミリだから当時の製版技術だとかなり粗い。そこで『ニュータイプ』は制作会社にリクエストを出して、実際に人気アニメーターに作画してもらい、セルに起こして彩色して誌面に載せる、はしりのような雑誌であった。ストーリーでは非業の別れを遂げた、主人公とヒロインを誌面だけで結婚式あげさせてあげるみたいな。編集者がそれを発注するのだが、自分は絵が描けたので、その下絵を描いたこともある。素人絵をプロが起こすんだからオソロシイ。

サムネイルが古いブログに残ってた。『ポリアンナ物語』。
こっちは『タッチ』。

 版権持ってる会社がOK出せばそれが通る。当時はアニメ雑誌編集も無手勝流だった。描き下ろしセルを載せたのは、競合誌『アニメック』が最初らしいが、ここにいた編集長がのちに角川書店に転籍して『ニュータイプ』の二代目編集長になった。Iさんは滅茶苦茶絵がうまかった。
 描き下ろしイラストというのはアニメーターにとって効率のいいアルバイトだったようで喜ばれた。16ミリのデュープだと絵が粗くなるんで、日本コロムビアのアニメ番組のレコードのシングルジャケットは、もっぱら東映動画のアニメーターがアルバイトで描いていたらしい。東映動画作品を東映動画のアニメーターが描くならわかるが、実際は日本アニメーション作品もタツノコ作品も、東映動画の人がアルバイトで描いていた。上手いけどなんかキャラクターが似てない、そういうジャケットが多かったのではあるまいか。
 なにしろまったくアニメを観てこなかったんで、割と早期に選外通告を受けて、もっぱら声優取材や音楽取材に回された。アフレコスタジオで取材が終わった後、声優さんと地下鉄で遭遇してバツの悪い思いをしたこともある。それまでタレントさんは、自家用車かタクシーで通ってると思っていた。
 音楽関係で最初に取材したのはシンガーの新居昭乃さんである。加藤和彦が書き下ろした曲でデビューしたが、実はヤマハ出身の仮歌シンガーのベテラン。清水信之さんとポンタのユニットの12インチシングル「Digi-Voo」でMikan-Changの名前で歌ってる。そのころアニメ雑誌の編集者で、音楽にもっともくわしいのではないかという気負いがあった。楽器もやれるんで、これなら使いものになるんじゃと思われたのか、通常のオリコンシングルチャートレビューみたいなのを任されて、かなり長い期間書いていた。一度、荻野目洋子のシングルのB面聴いて「セカンドライン」と書いたら、校閲さんに「素人はわからない」と言って突っ返されたことがある。「ボ・ディドリーみたいな」と書き直しても突っ返された記憶。30年前なんでそれぐらいしか覚えていない。映画『AKIRA』『ファイブ・スター・ストーリーズ』などのムックでも音楽原稿書かされたが、相手が知らないのをいいことに、ジェネシスに近いとか好き勝手書いてたと思う。
 会社から、知り合いの出版社で新しい音楽雑誌が出るんで手伝いに行けと言われ、創刊2号目から執筆始めたのが雑誌『TECHII』(音楽之友社)である。YMOとムーンライダーズに重点を置いた珍しい雑誌であった。元々は『サウンドール』(学習研究社)で「YMO新聞」をやっていた音楽ライター、高橋竜一さんが編集長だったらしいが、事情があって下りた直後だった。
 この雑誌には『キープル』(自由國民社)という前身がある。『現代用語の基礎知識』でビジネス系で有名だが、元は吉田拓郎御用達の「フォーク界の『明星』」と呼ばれた『シンプ・ジャーナル』を出していた出版社である。その雑誌をたまたま愛読していて、バンドのメンバー募集を投稿したこともあった。そのとき記事を見て連絡かけてきてくれたのが、編集部のバイトをやっていた、後にロリポップ・ソニックを結成するIさんである。彼女は私より先にこの雑誌に関わっていて、日芸の武邑ゼミに通うサブカル学生であった。『キープル』には、『サウンド・ストリート』でDJやっていた川村恭子女史もいた。彼女ともニアミスしていて、『TECHII』編集部を辞めた後、2人も全然アイドルくわしくないのに、なぜか学研の『momoco』編集部で再会してる。
 『TECHII』に関わったのは創刊2号目から。結構多めの原稿書いたのだが、機材にくわしく楽譜も読めたので、すぐ来ないかということになった。面接したとき、デイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキンのCD持ってたことに驚かれた。四方義郎が選曲やっていたFM東京の『トランスミッション・バリケード』で聞いて、存在を知ってたのだ。翌年に入って、3号目からはここの社員となる。確か編集部員は4人いたが、私が入ってすぐ3人になった。なにしろ徹夜続きで仕事がキツかったのだ。まだ一切公表されてなかったが、入る直前に編集長から、細野さんのノンスタンダード/モナドとテイチクが契約終了した話を先に聞いていて、暗雲たる思いで編集部入りしたのを覚えてる。
 この雑誌は3ヵ月1回フォノシートが付く、いまでいうDTMerのための雑誌だった。誌名の『TECHII』は「Hi-tech+Hi-touch」から来た造語で、前半は音楽情報/後半は楽器情報という珍しいハイブリッドな雑誌だった。立花ハジメのソロアルバム『テッキー君とキップルちゃん』に擬えて、「テッチーとキープル」という掛け合わせの意味もあったらしい。自分は前半に関わりたかったが、そっちの担当になったのは「ムーンライダーズ新聞」、「窪田晴男物語」(伝記)が始まってからで、初期はもっぱら機材関係を担当していた。藤井丈司さん、飯尾芳史さん、井上鑑さん、戸田誠司師匠と出会ったのは連載開始のころである。
 音楽雑誌には2パターンあって、レコード会社の広告が多い『ミュージック・ライフ』『ロッキング・オン』みたいな雑誌と、楽器メーカーの広告が多い雑誌がある。後者は『プレイヤー』『ロック・ステディ』『ロッキンf』『キーボード・マガジン』などが含まれる。『TECHII』はこっちの分類される雑誌であった。メーカーの権限が強いので、楽器モニターをやっていたミュージシャンのスタジオ取材が許されるというのが、他の音楽雑誌にはない珍しい体験。時間さえあればスタジオ見学も出来たので、立花ハジメ「Happy」、リアルフィッシュ「ジャンクビート東京」の制作現場を体験した。とにかく待つ時間が長かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?