希望の話。

今回書くことにした内容は、普段は聞かれない限り自分から語ることはしないけれど、実は一番聞いてほしい話でもあります。人生が舞台だとすれば、あまりに本音を赤裸々に語ってしまうのは興醒めでしかないと思うのですが、そんなにいい役者になれる気もしないので、せめて率直に告白してみようと思います。

僕が今から6年ほど前、二十代後半の頃に、クリスチャンになったときの話です。自分には関係ない、正しさの押し売りはやめて、スピリチャルはちょっと、俺の知ってる昔のお前はもういないのか…色々な声が聞こえてきそうで、僕自身も語るのは怖い。それに、成功者でも何でもないちっぽけな人間のいわゆる自分語りなど、ましてや宗教に関係する話など、聞きたくないという人が沢山いることをよく承知しています。

それでもどうしても書かないといけないと思ったのは、今の自分がまさに取り組まなければいけないチャレンジだと思ったから。詳しいことは、これから7日かけて、少しずつ紐解いていきます。できるだけ、自分語りにならないように、読んだ人にとって多少は役に立つように、気を付けて書きます。今日は1日目。人生の方向性が全くひっくり返って、希望を手にすることになった、そんな話。

日本人と宗教のごく一般的な付き合い方は、祈願は神社、葬式や法事はお寺、結婚式は教会、というように、特定の宗教に入り込んでしまうことを避け、よく言えば寛容に、悪く言えばご利益が得られれば何でも有り、というもの。我が家も全く同じだったし、それを疑ったこともなかった。

私の妻は小さい頃からクリスチャンでした。大学生の頃に彼女とお付き合いが始まった、それが私にとってのキリスト教との実質的な出会いでした。

付き合い始めてしばらくしてから、彼女から聖書を学ぼうと提案されました。何度も学びの機会をもちましたが、結果は僕の「全戦全勝」。ありとあらゆる聖書の教えに対して、僕は「論理的ではない」「根拠がない」と噛み付いて論破しようと試みました。何度彼女を泣かしたことかわかりません。真理だというなら神がいる証拠を見せろ、なぜそんなもの信じられるのか。大事な話だと思ったからこそ、激しく食ってかかっていたのでした。

ところが、ある週末に状況が一変するのです。聖書に「信仰とは望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです(ヘブル人への手紙の11章1節)」と書かれています。僕がこの言葉に出会った当時は東京で働いていましたが、ある土曜日に自宅でスマートフォンをいじっていると、この言葉が画面いっぱいに表示されたのです。

もちろん自分はクリスチャンになんてなるもんかと思っていたのですが、彼女のことを少しでも理解したいという気持ちもあり、かろうじてスマートフォンには聖書のアプリを入れていました。お節介にも毎日アプリから聖書の言葉が送られてくるのですが、普段はハイハイ、と思いながら読み流すところを、その日は違いました。この言葉を見て、何か天地がひっくり返ったような、自分がこれまで信じてきたことが根底から覆されたような、そんな感覚を感じました。その時、「教会に行こう」そう決心し、そしてその翌日、初めて近くの教会に足を踏み入れることになったのです。

何が起こったのか、もう少し詳しくお話ししたいと思います。

まず、目に見えないものを信じることを信仰と呼ぶんだ、ということに気づかされたということです。ヘブル人への手紙のこの言葉に出会ったとき、なぜか心にすっと、ああ、信仰というのは目に見えないものを信じることをいうのか、目に見えてわかることだから信じるというのとは違うのか、とわかったのです。そうすると、突如として、やっとというか、今までしてきたことが非常に申し訳なかったという気持ちが芽生えてきました。

じゃあ、なぜ目に見えてわからないものなんかを信じれるのか。この言葉に出会ったとき、そのことも一緒にすっと理解することができました。すなわち、それが望んでいる事柄を保証してくれるからだ、とわかったのです。望んでいる事柄、これは希望と言い換えることができると思います。目には見えないそれに希望を見出しているからこそ、それを信じている。信仰というのは証拠があるから信じざるを得ないということではなくて、自分はここに希望を見出すんだ、と自らの意志で選び取るものだ、さあ、お前はどこに希望を見出すんだ、とこの言葉が迫ってきたような気がしたのです。

当時の僕は、会社に入って3年半ぐらいだったでしょうか。自分自身が自分を受け入れられずに、毎日のように死にたいと思っていました。中学生の頃でしょうか、自分を全く制御できずに、欲望に駆られるままにあらゆる人を傷つけ、あらゆるルールを踏みにじることに快感を感じて、暴走していた時期がありました。ふと我に返ったとき、自分がしてきた取返しのつかない悪事を悔やみ、自分の行動を制御できない自分自身にも深い絶望を覚えました。改心してから、毎晩1時間ぐらいかけて日記を書くようになりました。良い人間になるために何をすべきか、もっと人生を充実させるために何をすべきか、リストを作り、それぞれに具体的な目標を設定して、毎晩進捗を管理するというやり方で、あらゆることに取り組むようになりました。進捗が悪ければ、自分に罰を課し、時には自分で自分の顔面をボコボコに殴ったりして体罰を加えました。それから10年ぐらい、自分で自分を管理して育てる、というやり方を続けていくうちに、いつも自分の不足にばかり目を向け、できない自分を罰する、いつも自分の力で何とかしようとする、というような思考回路が出来上がりました。そこから脱出しようとしても、全然脱出できない自分に気づいてさらに落ち込む、というようなことを繰り返し、どうにもならない状態で、死んで人生を一からリセットするしか道はないとっていました。

また、私は2010年から電力会社に就職し原子力に関する仕事をしていました。具体的には、原子力発電の安全性を地域の人たちに理解してもらい、新しく原子力発電所を作ることに協力してもらえるよう説得する、という仕事をしていました。その1年後の2011年に福島第一原子力発電所の事故が起こり、安全神話を疑いもなく信じ込んでいた自分の浅はかさを思い知ることになるのですが、その後も業界や政治の世界の生々しい現実を内部でかなり見てしまいました。そんな経験を通して、もう人間が正しいと考えることなどに希望なんて全く見出せなくなってしまったのです。いくらそれっぽい根拠を並べて正しいと言い張ってみたところで、何もかも虚しい。人間にわかることも、できることも、本当に限られている、と思い知らされました。

この世の中のどこかに正義みたいなものがあると信じてきたけど、そんなものはないんだ、うまく世渡りをして、自分の得になるなら他人に優しくして、どうやって自分が楽しむか、というゲームをしていくのが生きるということなんだ、と気づいた途端に、全く生きる気力がなくなりました。対人関係も苦手でうまく世渡りもできない、他の人のように何かが好きだとか楽しいとか感じることも特になく、よくわからない。そんな自分が情けなく、惨めで、どうしようもなく価値がないものに思えました。こうして自分にも他人にも何も希望を見出せなくなっていた時に出会ったのが、この御言葉だったのです。

さあ、お前は神の言葉を信じるか。お前の目には、どう映るんだ。このとき僕は、信じてみたいと思いました。ずーっと握りしめてきた、自分に頼って生きるその生き方を捨てたいと思いました。そして勇気を振り絞って、ずっと前に妻から紹介された、家の近くの教会に、一人で足を踏み入れたのでした。

信仰とは望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。そんなたった一つの言葉によって、希望を手に入れることができる人もいる。自分の人生も、この世の中も、何も意味がない。頑張って生きたって、しょうがない。そんなふうに失われる命が一つでもあるなら、僕は勇気を振り絞って叫びたい。ここに希望があるよ、と。

明日はもう少し、掘り下げてみようと思います。最後まで読んでくださって、ありがとうございました^^

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