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今週の出来事(7/25~7/31)

Random thoughts and head trip [Week. 125]

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今週の出来事を書いていきます。


7月25日(月曜)

科学社会主義でいう下部構造-上部構造。これは唯物論をベースにした考えだが、観念論にしても唯物論にしても、世界を統一するものが神なのか自然科学なのかの違いに見える。もっとより深く理解したら違うのかもしれないが。
しかし、我々の世界の認識の仕方や価値観は少なからずともこういった意識の影響を受けている。これは構造というものかもしれない。
そして最近では、統一はなく全てバラバラな異物同士のうごめきが我々の意識を規定している、統一や普遍を嫌う概念が浸透してきているかに思う。
そして僕もその思考にもろに影響を受けている。
人は、周りよりも自分の方がよく世界を見えている、という意識があるように思う。それがより近現代でドライブしていっている、というよりもそれが良いという倫理観が少しずつ醸成されていっているように感じる。
それが、大衆を嫌う大衆が生まれる現代の矛盾的うごめきを生んでいるように思う。
そうさせる関係性、うごめきとは何か?どのような構造があるのか?
そうではないうごめきでかつ、美しくも心地よいうごめきとは何か?
循環の流れを見たい。大衆を嫌う大衆は自らを状況によって排除していく。

7月26日(火曜)

人は他人に向けられた批判や怒りを娯楽として見る傾向がある。これは構造的なものなのか、文化的なものなのか。


7月27日(水曜)

構造と文化を読み解く。異なる異物同士の対立から関係性が生まれうごめきとなり、社会を規定していく。その規定している社会を構造と文化の側面から読み解く。うごめき自体そのものは流動的に変化をし続けるので、固定的に捉えるのは非常に難しい。なので、うごめきは変化のありようで捉える。どのように変化しているのか、その物語でうごめきを捉える。そしてその物語の背景には、構造と文化がある。文化はうごめきと構造の間で、うごめきが変化することでゆっくりと変化し続けている。そして、構造はほとんど変化をしない。なので、構造と文化を読み解き、対応することで、変化の流れ、うごめきを描けるかもしれない。美しくも心地よいうごめきは、美しくも心地よい物語とも言える。それは循環構造を示している。
直線的で累積的な発展を人はイメージするが、実際はパラダイムシフトの循環、常識が螺旋階段上に変化しながら循環しているのだ。
その永遠性は複雑さを擁し、ありのままなその状態を人は捉え所のないものとして捉える。
だから、どこかで切り取り、到達点を作り、また循環すればいいのだが、そこを終わりにし、排除を生み出す。そして満足感を得る。よき人生であったと。これは構造的なものなのかもしれない。

7月28日(木曜)

構造には、その社会的分脈の中で民族誌的に生まれた文化構造というのがあるのではないか。この文化構造は答えのない根源的問いを司っており、その答えが文化である。そして、答えの差異により文化を認識する。またその文化構造の中にそれぞれ異なる要素、個、アクターが存在する。それらもまた、問いの答えを持っており、文化との差異によって個を認識する。突き詰めると同じ文化内においても個々の答えは異なる。
この答えのコンフリクト同士が相互に影響を与えあい、それぞれの個や文化、場が変化する。それは物語であり、うごめきの認識の仕方でもある。うごめきを認識するには物語を、それぞれの変化を見る。
そして変化というのは、身体感覚の変化、認識の変化、感情の変化、思考の変化、行動の変化である。この変化にはそれぞれどのような答え、文化があるのか。そしてその裏にはどのような答えのない問い、文化構造があるのかを読み解く。
これらを読み解いた時がうごめきを読み解いたこととなる。そして、一つのアクターとして、また構造に働きかけるように対応するのだ。これが、この権力構造に従属しないことになるのではないかとも思ったりする。
権力構造に従属する、現代でいうなら、大衆社会の一因になるということかと思うが、それが何が問題なのか、それは、排除を生み出すことにあるかと思う。
我々が自明だと思っている常識、大衆社会においては最も優先度の高いそれは、選択してきたもの、排除してきたもので、今、ここ、私に到達してきたものではない。ただ、そう思っているだけで、それは無数にある可能性の中からたまたまそうなっているだけであり、その他を排除すれば一筋の糸になるというだけだ。そして、そのような直線的な理解は、善悪を絶対化し排除を生み出す結果に近づく。排除は、差別や争い格差などの耐え難いがどうしようもなく発生する問題を助長する。そして、そのような問題は自己の生きる意味をも毀損する。
殺権力から生権力に移行した後には、気づかないうちに権力構造の中で同じ答えを持ち、美しさも心地よさもない生をただ消費する。
それが楽なことであると自明なものとして感じながら。

7月29日(金曜)

美しさとは、自己の感覚と向き合うことである。
自らが感じたことを表現すること。感じたことと表現の一致を目指す。それが到達。
自らがいいなーと感じることを、自らのうごめきに実装する。いいなーと思う生活をする。
そうすると必ずコンフリクトがおきる。自らのいいなーと自らの行動は一致しないし、個々のアクターは皆異なる。
そのコンフリクトを調整すること。調整するとは、妥協したり、いいなーと思わないことをしなかったり、いいなーの濃度を変えてみたり、異なる相手のいいなーに思いを馳せて共生できるあんばいを探したりすること。
この調整を通して、自らのいいなーと向き合い、自らのうごめきにいいなーを溢れさす。
調整は循環構造をイメージする。一致しないなら循環でいいのだ。それが心地よさを生む。
こうやって美しくも心地よいうごめきは描かれる。
自己への配慮で美しさを取り戻し、妥協案的循環で心地よさを生む。
生権力による大衆社会はこの逆になる構造がある。だから自己の感覚に向き合えず、終わりの先延ばしばかりをする排除構造が生まれる。
美しくもなく心地よくもないうごめきだ。
これが俺の問題意識なのだろう。

7月30日(土曜)

自分のイイなーで溢れさす。
これだな。

7月31日(日曜)

スキマ。
束の間。

振り返り

自己への配慮。
自己の感覚と表現が一致する束の間。
生きる意味は束の間に存在する場。
配慮せざるを得ない。


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