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今週の出来事(7/18~7/24)

Random thoughts and head trip [Week. 124]

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今週の出来事を書いていきます。


7月18日(月曜)

中央集権的なものを分散化して得られるインセンティブとは何か。
それは循環かもしれない。
中央集権で得られるインセンティブの概念は蓄積にある気がする。また特権出会ったりするのか。使用と生産が分けられる。
この蓄積を分散に置き換えるのではない。蓄積とは異なるインセンティブに少しずつ変化していくことなのだ。
使用と生産が同時に行われる場がひとつの到達だと感じる。使用と生産が同時に行われると認識した場合、何が使用されて何を得て何を生産しているのかの何かを捉えることが重要である。それは軸が多数存在していることであり、それを認識できることが循環的なインセンティブ設計に重要であるかと思う。そして同時であることがひとつの到達ではあるが、同時でなくてもいい、循環であればいい。となる。
それが循環の概念。
多様な存在軸のエネルギーを分有する、その分有を話し合う集会マジェリス。そこではまた、新たなアイデアや知の生産も行われる。使用(の話し合い)と生産の同時性。また、実際に行動する時間のズレ。このズレをつなげると循環になる。そして、どちらでもないただ開かれぐだぐだと過ごすノンクロンという存在の実践。これらが流動性のある変化し続ける循環を描く。うごめきがそうなる構造を描きたい。そして、構造を描くとは、イメージするうごめきの流れとそうなる構造を読み解き、対応することである。
これらが美しくも心地よいうごめきであることをイメージする。
皆が好き勝手にやっていいとなった場合、そこは自己中心的な行動ばかりをしたカオスになって崩壊するのではないか、という疑問が出てくる。
しかし、自己への配慮をおこなっているということは、自己の欲望の奴隷にはなっていないということだ。その上で自己への配慮を行い、お互いに自己への配慮が行えるうごめきを描いてく。これが他者への配慮となり、自己の欲望の奴隷から逃れる。ストゥルトゥス(自己へ配慮しない人)であることは、自己への関心が薄れ、自己の欲望にも気づけづ、欲望の奴隷になるのではないか。わからないが。
自分自身であることを探求し、多層的な世界で生き、集権化された構造を分散化することで立ち会わられるインセンティブを捉え美しくも心地よいうごめきを描く。

7月19日(火曜)

使用と生産を同時に行うことが到達であるとしたら、自分の使用による生産されるものとはなんなのだろうか?
プラットフォームではなく場を作る。そしてうごめきを描くとは、構造を描くとは、その構造を読み解き対応することだ。

7月20日(水曜)

停滞と解放


7月21日(木曜)

到達へ向かうと物事はシンプルになり、より分かりやすく我々の心を打つ。そして何かをこぼれ落ちさせる。
このバランスが到達と無限循環の難しさ。
何かが正しいという定義のもと土台を作りプラットフォームを描くのではなく、そのうごめきを読み解き、構造を読み解き、心地よく美しいうごめきになるよう対応する。これが構造を描くということである。
到達もいいが、循環もいい。このバランスをとっていくことに意味があり、喜びがある。
人は到達を目指すがその一方で孤独と恐怖には勝てない。では、孤独ではない到達が見えたとき、うごめきである人は快楽と共に到達するのか?

7月22日(金曜)

ゴニョゴニョ

7月23日(土曜)

自らが目指す到達とうごめきとしての生活における対応のあり方

7月24日(日曜)

言葉と物語の関係性。
構造を読み解くとは、その事象そのものに意味があるのではなく、その関係性を読み解く、そしてその関係の背後にある構造を読み解くこと。
そこで抜け落ちるものも含めた対応のあり方が一つのアクターとして対応することであろう。そして意味の存在というのは恣意的に紐づけられていく、シニフィエとシニフィアン。

振り返り

俺は物語を感じることに夢中になる。その情動が抽象的な思索へと導く。そして稀に途轍もなく突拍子のない感動的な爆発を起こす。物語を感じることとうごめきと構造を感じることは近いのかもしれない。感じると表現するが同時に行われた時、生の到達を迎える。


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