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裏で花咲く 開演『種』②

「シノミヤさん?」
 それが自分の名前だと気づくのに、時間がかかった。もう一度繰り返され、そうだった私はその名前でTwitterをやってるんだったと思い出す。
「はい、シノミヤです」
「ああよかった。違ったらどうしようかと思った。Jです。どうも」
 いつもだったら、待ってる間に相手のTwitterを遡って話題の一つでも探しておくのに、今日はそれを忘れてしまった。それもこれも、彼がいきなり現れたのがいけないんだと、全ての責任を篠宮くんのせいにする。篠宮くんは、私の大学時代の元カレで、そして、唯一私を真剣に愛してくれた人。唯一私を気持ち悪いと言って、遠ざけた人。

 篠宮くんは、先月から東京に戻ってきたらしい。転勤が多い仕事だとは聞いていたけれど、大学卒業と同時に仙台に行ってしまった彼とこうして偶然再会することになるとは思っていなくて、同じ西武線に乗り込んだ後も、私はろくに目が合わせられなかった。
「今日会えてよかったよ。元気そうでよかった」
 たわいもない会話のほぼ半分以上を、私はまともに聞いていなかった。ただ、これが終わりの合図だということだけはよくわかった。
「……うん、篠宮くんも」
「じゃあ俺、ここだから」
 電車がホームに滑り込んで、速度が落ちて行く。私は、驚いて彼を見つめる。
「……どうしたの?」
「私も」
「え」
「私もこの駅」
「嘘」
 篠宮くんがくしゃって笑う。少し大人びた横顔は、笑うと途端に当時と同じくらい幼くなる。ちょっと目尻の皺が増えたかもしれない。ああ、私ちょっと、ドキドキしてるかもしれない。
「じゃあさ、一杯だけ付き合ってくれない? 最近通い始めたバーがあるんだよね」
 篠宮くんが連れてきてくれたバーは、私が毎日通る道をほんの一本ずれた場所にあった。もうここに住んで長いのに、こんなバーがあるなんて知らなかった。電球一つで照らされた重厚な扉を開くと、数人の先客がいた。アンティークのソファが印象的で、その座り心地を試してみたくてうずうずしたけど、篠宮くんは迷わずカウンターに腰かけた。
「何飲む?」
 聞かれて、私はカウンターに置かれたフルーツに視線をずらす。
「あれでカクテル作ってもらえるのかな?」
「あ、そうそう。甘いの好き? 美味しいらしいよ。ね、マスター」
 白髪のまざった髪を一つにくくったマスターが、笑顔で頷く。どのフルーツにしようか散々迷って、結局「オススメのやつを」と頼んだ。
「雰囲気のいいお店だね」
「そうでしょ? 俺ほぼ毎日いるもん」
 他の常連さんたちと軽く話して、ドリンクが届いて、乾杯をして――なんだか自分たちが酷く背伸びをしている気になった。学生時代のあの時よりは幾分年を取ったはずなのに、こうして篠宮くんとお酒を飲んでいる状況というのが、どうもしっくりこない。
 もっとお洒落なバーにだって行ったことはある。ホテルのラウンジでデートとか、そういうのもある。もう大して覚えてないけど、ホテルのスイートルームとやらでしたセックスはいつもより甘美で贅沢で、ラブホテルに行くお金さえなかった学生時代を思い出しては大人になったなと実感していたものだった。もう、相手の顔さえ思い出せないけど、それも大人になったの一言で片付く。
 なのに、篠宮くんとこうして一緒にいる私は、酷く子供みたいだ。
「もう治った?」
 しばらくして、篠宮くんが呟くようにそう言った。何のことかわからないでいると、彼は言葉を続ける。
「その……依存症?」
 ああ。ようやく意味がわかった。セックスという言葉までは言わないあたり、彼の育ちの良さを感じる。いや、場所が場所だけにか。
「どうだろう。試してみる?」
 いつもなら私はこう答えて相手を煽っているはずで、いつもなら飲み終えた後ホテルに急行しているはずで、だけど今回ばかりは、篠宮くんがどんな反応を示すかわからなくてやめた。
 ご想像にお任せします、とどちらとも取れる回答をしたら、篠宮くんは小さく首を傾げた。
「ふーん? じゃあ彼氏は? いるの?」
「えっ、いないよ彼氏は」
「彼氏はって何? もしかして結婚してる?」
「してないしてない、そういう意味じゃなくて」
「そっかぁ、フリーか。よかった」
 篠宮くんがくしゃって笑う。「よかったって」と笑い飛ばしたいのに、私は上手く笑顔が作れない。篠宮くんは笑ってるのに、私もちゃんと笑いたいのに、笑わないと、頭のいい彼はきっと気付いてしまうのに。私が今何を望んでいるのか、気付いてしまうのに。
「彼氏がいないなら、気兼ねなく飲みに誘えるね。またここで会おうよ」
 うん、と小さく頷いた。気付かないで、どうか気付かないで。私は下卑だし爛れているし、気持ち悪いから気付かないでほしい。
 きっちり一杯ずつ飲んで、店を出ると街の灯りはほとんど消えていた。もう人通りも全くない。私の住んでいるこの街は、夜になるとしっかり眠る。歌舞伎町とは全然違う。
「電話番号変わってないから」
 最後に、彼はそう言い残して去っていって、私はなんとなく、がっかりした。「電話番号変わってないよね?」じゃなくて「変わってないから」。私が彼の電話番号を消さずに残しておいていること前提だし、そもそも私から彼に連絡すること前提だし、もっと言えば元カレ元カノという関係があって初めて成り立つその強気な発言にがっかりした。篠宮くんってこんな人だったっけ? なんか、なんていうかもう少し、少年的な、
「……篠宮くん」
 寒空の下、早足で歩いていく彼の背中に思わず声をかけた。不思議そうに振り返った彼は、コートのポケットに手を突っ込んだまま「何―?」と答える。
「あのさ……彼女、いる?」
 私の質問に、彼が答えるまで間が合った。でも彼の姿は遠くて、街は暗くて、私には彼がどんな表情をしているのかわからない。
「いるよ。仙台に置いてきた」
 ああ、やっぱりなんか噛み合わない。篠宮くんって、こんな人だったっけ。

 行きましょうか、という声にハッとして顔を上げると、Twitterで出会ったJさんは、既にどこへ行くのか決めているかのようにスタスタ歩き出した。
「どこに行くんですか?」
「どこ行きたいとかあります?」
「いえ、私は別に」
「じゃあ適当になんか探しますか」
 適当、と言う割にはその足取りははっきりしていて、たわいもない話題で間を繋ぎながらついていく。例によって私はその会話の半分も覚えてないけれど、どうせこれからすることと言えば一つだし、会話はそのきっかけに過ぎないので大したことない。
 ふと、迷いなく進んでいた彼の足が急に止まった。そして、
「ダメだ、迷子になっちゃいました。僕方向音痴なんですよね」
 この人は何を言ってるんだろう。そう思った私の気持ちが、顔に出ていたらしい。私は顔に出やすいから、だからいつでも絶えず笑顔を浮かべておくようにって、昔真由子とクラブに行った時も注意されていたのに。美穂と行くと全然ナンパされないんだけどぉ、引いてるのが顔に出てるんだよ。美穂ってさぁ、遊びまくってる割には男が好きじゃないじゃん、なんていうか、男っていう生き物とタイマン張ってる感じ。――あの頃の真由子のほうが、若かった分、勘がよかった。だから余計に、関わりづらかった。
「こっちだったかな、行きましょう」
 Jさんはそう言って、再び歩き出す。「迷子だなぁ、迷子」と言いながらスタスタ歩く。「こっちかな」と道を曲がり路地に入ったところで、私は気付いた。
 ああ、ホテル街。
「ここらへんにね、いいカフェがあったはずなんですけどね。あ、これかな」
 Jさんは言いながら、一軒のホテルに入っていく。なんでこんな手の込んだやり方なんだろう、私は元々そのつもりで来てるから別にあけすけに誘ったらいいのにと思ったけれど、そうだった、私がツイートしたんだった。道に迷ったからカフェかなんかで休憩していこうとドライブ帰りにホテルに寄られて、それにときめいただとか何とかって、確か私がツイートした。
 いつ何を言ったかなんて、言った本人が一番覚えてないものだと思う。本当に心動かされた出来事なら、ツイートなんてせずに自分の中に留めておくものだし、一日に何通も投稿するエピソードの中の一つを取って深堀りされたところで、それ以上のものなんて出てこないし。
 彼がシャワーを浴びてる最中、ふと気になってJさんのTwitterを覗いてみた。「ホテル直行デートしたいな。絶対一番楽しい」という3日前のツイートが一番最新で、私はそれにファボをしていた。全然覚えてないや。ホテル直行だろうが迂回だろうが、最終的にセックスできればなんでもいいんだけど、彼にとってはこのツイートに共感してくれるか否かがセックス可否の判断要素らしい。
 覚えてないなぁ。自分のツイートどころか、人のツイートも全く覚えていない。私にとってのTwitterって、どういうツールなんだろ。そんなことを考えていたら、Jさんがシャワーから出て来て、私を抱いた。

🔁ハルさんがリツイート
シノミヤ @she_no_me_ya ・ 12時間
セックスした後に飲みに行くの、さっきまで
あんなことやこんなことしてたのに普通の顔
して酒を酌み交わしてる自分たち、ってのが
最高に興奮するのでいいぞもっとやれ。
💬21   🔁36   💛572

裏で花咲く 開演『種』③ へ続く



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