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裏で花咲く 開演『種』③

 彼がいつ何時、どんなツイートをしていたか、私はすぐに答えることができると思う。なんなら何にファボをして、誰にどんなリプをしていたかだって答えられる。Twitterを覗いている時間のほとんどで私は彼のホーム画面を開いているし、何度も何度も繰り返し彼のタイムラインをスクロールしているから、時折自分のツイートが彼の口調に似てしまって困る。多分、ツイートしている本人よりも見ているのって、私くらいじゃないだろうか。いやでももしかしたら、彼のことだから、他にも信者がいるのかもしれない。
 100人ちょっといるフォロイーの一人からリプが来ていて、それに返信しなきゃと思ったタイミングで夫の声がした。「行ってくるねー」というまだ眠そうな声にはーいと返事をしながら、私は玄関へ急ぐ。
「今日会社の飲み会があって、遅くなると思うから」
「女の子もいる?」
「そりゃいるよ。でも大丈夫、会社の人だから」
 夫の少し、うんざりしたような表情が気になった。彼の浮気に気付いて問い詰めて家を追い出して、そんな彼がやり直したいと謝罪をしてきたあの日から数か月が経つ。もう浮気はしないって私と約束した頃、彼は絶対にそんな顔はしなかった。この家に戻ってきたばかりの頃、彼はもっと優しくて、もっと私を愛していた。
「行ってらっしゃい」
 キスをして、夫を送り出す。会社の飲み会があって遅くなる、その言葉を私から言わなくて済んだことにちょっとだけほっとしながら、左手の結婚指輪を外した。
 そういえば夫は、浮気をしていたあの時期も、結婚指輪は毎日つけて出かけていたっけ。

 越野さん。それが私がTwitterで初めて会った男性で、唯一会ったことのある男性で、そして私が唯一、セックスをする相手だ。前回、金曜日の夜に会って体を重ねてから、もう二カ月近く経つ。なかなか予定が合わなくて、というか彼にはたくさん女性がいるけど私には彼しかいないからこれが正しい頻度なのだろうけど、私にはこの二カ月がとても長くて、待ち遠しくて、だから約束が決まった日からずっと胸の奥がそわそわ落ち着かなかった。
 夫の話も、いつも上の空で聞いていたし、仕事をするにも身が入らなかった。もっとちゃんとしなくちゃ頑張らなくちゃと思えば思うほど重心が彼のほうに傾いていってどんどん天秤のバランスが悪くなった。ひっくり返れば、足元は底なし沼だというのに。
 結局今日も、この後彼に会うんだと思ったらそわそわしてしまって仕事も何も手につかなくて、後輩の女子に「デートですか?」とからかわれてしまった。これで何度目だろう。いい加減、私はちゃんとしなくちゃ。
 多分15分以上前についてしまうなぁと思いながら、私は新宿に向かった。越野さんが予約してくれたお店は歌舞伎町の普通の居酒屋だったから、その前にどこかで化粧直しでもして時間を潰そう。駅のトイレよりルミネエストに上ったほうが早いかな、アルタがいいかな。
 そんなことを考えながら東口の改札を出たところで、電話が鳴った。母からだった。
「元気?」
 田舎の母は、こうやって突然思い出したかのように電話を寄越す。その大抵が「夫婦仲良くやってるか」で始まり「子供はまだか」という話題に落ち着くので、忙しいふりをして電話に出ないことも多いのだけど、今日はなぜだか取ってしまった。きっと気持ちが浮かれてるせいだ。越野さんと出会ってからというもの、私は上手く思考ができていない気がする。
「あー、元気だよ。でもごめん、これから友達と飲みに行くから、ちょっと急いでるんだけど」
「そうなのね、ごめんごめん。最近は仲良くやってるかなって思って。ほら、譲さんと」
「もちろん、仲良くやってるよ」
 嘘です、本当は浮気されてました。心の中でそう返すと、浮かれた気分が徐々にささくれ立っていく。
「子供はまだ? ちゃんと夫婦で話してる?」
「もちろん」
 ああ、どんどんささくれ立っていく。
「詩織だってね、もうあんまり若くはないんだから、のんびり考えすぎないほうがいいわよ」
 母は、そんな言葉を残して電話を切った。そんなこと、言われなくたってわかってる。私だって本当は今頃、産休取って子供を育てて、保育園には入れるかなぁ職場復帰はいつになるかなぁなんて悩みを抱えて生きる予定だった。まさか夫の浮気が原因でTwitterを初めるなんて思ってもみなかったし、そこで知り合った人と定期的にセックスをすることになるなんて想像もしていなかった。ねぇ、想像もしていなかったんだよ、お母さん。

「かのんさんは? 名前の由来」
 私が越野さんのアカウント名の由来を尋ねたせいで、思わぬ流れ弾が飛んできた。越野さんは「なんかまぁ適当に呼びやすそうな名前を」とのことだったので、私も同じようなものだと答えれば話は早いのだけど、いかんせん『かのん』だなんてゆるふわで自信ありげな名前をつけちゃったものだから適当と答えるのも恥ずかしい。
 誰にも会うつもりがなかった。だからせめて、ネット上では可愛い女の子を演じたかった。
「……パッヘルベルのカノン、わかります?」
 越野さんはしばらく考えてから、「オーケストラとか、ピアノで弾くような音楽?」と聞いてきた。
「そうです。夫と知り合った時、それが流れてきて」
「あー、店とかで流れてたってこと?」
「じゃなくて、頭の中」
 言ってから、これはやばい女感が出ているんじゃないだろうかと気になった。脳内までゆるふわだったと引かれてるんじゃないだろうか、もう次から誘われなくなったらどうしよう。そんなことが頭の中をぐるぐると巡るけれど、話し出してしまったものは仕方ない。
「特別その曲が好きってわけじゃないんですけど、あの、私幼少期にピアノを習っていたんです。すぐ辞めちゃったんですけど、その、唯一発表会で弾いたことのある曲が、それで」
「ああ、思い出の曲ってことだ。ピアノ好きだったんだ?」
「いえ、嫌いでした。発表会も、散々で」
 ピアノを習い始めたのは、確か母の意向だったと思う。弾けるようになる度に母が嬉しそうな顔をするから、私は今さらピアノが嫌いだなんて言い出せなくて、でも発表会だけは本当に嫌で、人に注目されるのが本当に苦手で、だから二年連続仮病を使って休んだ。
「でも、三年目はさすがに、子供心にもわかったんです。これ以上仮病を使うと仮病だってバレちゃうなって、いや今ならわかるんですけど、親なら子供が仮病を使ってるのか本当に具合が悪いのかぐらいすぐわかるし、わかってて黙っててくれたんだって今ならわかるんですけど、でもその時は、最初の二回は絶対バレてないと思ってて」
 越野さんは、特に興味があるわけでもないわけでもなさそうな、よくわからない表情を浮かべながら私の話を聞いている。
「それで、三年目に初めて出た発表会で、カノンを弾いて……ううん、ほとんど弾けませんでした。緊張して、泣き出しちゃって、もうグダグダで」
 私一人だけがステージの上に立っている、その事実が怖かった。人の視線が怖かった。今すぐここから逃げ出したいと思った。
「だから、私にとってカノンっていう曲は、逃げ出したい時の合図なんです。逃げ出したい時に頭の中に流れます」
 越野さんは、何がおかしいのかくすくす笑いながら、ハイボールをもう一杯おかわりして、私にも「何か飲む?」とメニューをくれて、私は生ビールをもう一つ頼んで、そうして再び越野さんを見た。
「ごめん、意味わかんないや」
 越野さんは楽しそうに笑ってる。私は意味が伝わってないことに若干悲しくなりながら、でも彼が楽しそうだからと楽しくなる。
「えー、えっとね、なんて言えばいいのかな。だから、夫と出会った時に逃げなくちゃって思ったんですよ。多分今すぐ逃げないと、私この人のこと好きになっちゃうなって」
「え、何それ可愛い」
「それでね、えーっと、Twitterは私の個人的な逃げ場なので、駆け込み寺みたいなものなので、それでかのんという名前を」
「ふぅん、駆け込み寺ねぇ」
 越野さんは、やっぱかのんさん面白いね、と付け足して残っていたハイボールを飲み干した。面白いって言われるのももちろん嬉しいんだけど、私は聞き逃してませんからね、合間にあなたが、可愛いって言ったの。

 越野さんとの『そういうこと』を終えて帰宅すると、まだ夫は帰ってきていなかった。セーフ、と思いながらほっと息をつく。いつもいつも、家に帰ってくるまでずっと気が抜けない。どこかで夫が私を見張っているみたいで気が抜けない。
 Twitterを覗くと、さっき私が投稿したツイートに、越野さんがファボをしてくれていた。それだけで喜んでる自分がいて、その度に私ってなんでTwitterやってるんだっけと思ったりする。彼のホーム画面に飛んで、他の女子とリプで会話してるのを見ながら、多分この人は既セク、この人はまだ、ああでもそろそろ飲みに行きましょうなんて会話をしてるから時間の問題、なんて考えたりして、彼はこの子のことも抱くのかなって、さっき私にしてくれたみたいに優しく抱くのかなって、
 ふと気づいた。天秤、ひっくり返ってる?
 ガチャ、という大きな音が、夫の帰宅を私に知らせてくれた。彼から鞄とコートを受け取ると、ふわりと甘い香水の香りがする。
「会社の飲み会だったんだよね?」
 思わずそう尋ねてしまう。彼は、やっぱりどこか鬱陶しそうな顔をしながら、「そうだけど」と答えた。
 子供はまだ?
 母の一見無邪気な、けれど心から心配そうな電話口の声が蘇る。私は子供が欲しいけど、それは私が子供を必要としているからなのか子供に必要とされたいからなのかがわからない。私は誰から必要とされてるんだろうと思えば思うほど誰からも必要とされていない気がして、Twitterなんてものに逃げ込んでみるけどそこは現実の世界以上にいつ誰がいなくなっても構わない虚構の世界で。
 私の言葉は届かない。この小さなスマホから世界へ発信された私の言葉は何千というフォロワーの力を借りたって所詮世界へなんか届かないし、この国にすら広がらない。隔離された日本のただ一角の裏垢という世界の中のごくまた一部の、自意識と変態性に苛まれる人たちが何も映らない映さないその目で読み捨てるくらいで、それも三歩歩けば忘れ去られるからただの肥溜めだ。私の言葉は届かない。誰にも、自分にも、ましてや、目の前にいるこの人になんて、絶対に届かない。
「ねぇ、子供欲しいと思う?」
 私は子供から必要とされたい。でも本当は、夫に必要とされたい。
 産めない、と思った。今のままじゃ絶対産めない。私は絶対子供の将来に、私の未来を重ねてしまう。私は子供を愛せない。自分しか愛せない。だって私が愛してあげなくちゃ、誰も私のことを愛してくれないもの。
 夫は、結局何も答えなかった。ほらやっぱり、私の言葉は届かない。

🔁ハルさんがリツイート
かのん @kanonnn_ura ・ 4時間
大好きって気持ちを悟られるのが一番怖いので
どうでもいいよ、どうでもいいよって言い聞か
せてるうちに大抵のことは本当にどうでもよく
なるんだけど、割とダダ洩れな私の大好きに気
付いてくれるあなたは大大大好きよ。
もうどうでもいいには戻れないね。困ったね。
💬7   🔁13   💛 189

裏で花咲く 開演『種』④ へ続く


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