見出し画像

裏で花咲く 開演『種』④

 子供を愛しているか否かと問われれば、絶対に答えはイエスだ。私は我が子を愛している。ただちょっと、愛情表現の仕方が難しくてわからないだけ。絶対それだけ。

「うーん、特に悪いところはないですね。風邪かなぁ」
 行きつけの小児科で、いつもの先生はそう言いながら首を傾げた。病院の先生なのに首を傾げながら診断を下していいのかと思うけれど、この地域で一番評判がいい小児科の先生がそう言うなら間違いないんだろうと息をつく。
 一樹が定期的に熱を出すようになって、もうすぐ一か月になる。その度に私は病院に通ったし保育園は休ませたしオフ会はドタキャンせざるを得なくなったし何もいいことがない。何もいいことがないのに、病院から帰ってくると、一樹はなぜか元気になったように張り切って遊び出す。
「ママ~! 消防車がきたよ! 火事やって!」
 一樹の言葉に、私は授乳を終えた二葉を抱っこ紐でおぶって立ち上がった。本来なら火事があってそこに初めて消防車が来るんだけど、息子にとっては憧れの消防車が活躍するための火事でしかない、ので、火事が後からやって来る。風邪だとしたら二葉にうつらないといいなぁと思いながら、レゴの人形を動かす。
「きゃー、火事よ! 消防車はまだー?」
 一樹は私の声に嬉しそうに笑い声を上げて、消防車を走らせている。不思議に思って額に手を当てると、やっぱり熱はある。でも、めちゃくちゃ元気。
「一樹、お熱があるから寝ないと。明日も保育園行けないよ? お友達に会えないと寂しくない?」
「さみしくない!」
 一樹はそう言うと、消防車を放り出して今度はパトカーを手に取った。時計を見ると、もう17時。そろそろ準備をしないと、オフ会に間に合わない。元気に遊びまわる一樹の額に念ためにと冷えピタを張ると、クローゼットを開けて洋服を吟味し始めた。
 先週の、人妻たちとのランチオフは、一樹の熱で行けなかった。その前の週は初めましての男の子と会うはずで、多分そのままホテルの流れだったはずなのに、やっぱり一樹の熱でドタキャン。
 思えば私が飲みに行こうという日に限って熱を出されている気がする。一樹は私に何か恨みでもあるのかな、そういう息抜きの場がないとちゃんと母親なんてやれないのに、一樹はママがイライラしてるほうがいいのか。今日のオフ会は何がなんでも行きたいし、大輔が帰ってきたら彼に任せてさっさと出かけよう。だって今日は90年組のオフだし。五反田でセックスだし。
 その考えが甘かったことを知るのはそれからたった10分後で、なぜか虫の居所が悪くなった二葉が泣き止まなくなる。

「はいはい、眠いねー、寝れないねー、悲しいねー」
 二葉を抱っこでゆらゆらしながら、壁にかかった時計を見る。ああヤバい、これじゃ全然間に合わない。遅刻する、とDMを送ろうと思ったら、一樹にスマホを奪われた。
「ママ! 電車見る!」
 一樹の快活な声に、二葉のぎゃーっという泣き声が大きくなる。待って一樹、ママそれ使いたいの。言っても一樹はスマホを返してくれない。どこで覚えたんだか、YouTubeのアプリを立ち上げられた。
「電車見る!」
 キラキラした笑顔でもう一度繰り返した一樹から、思わずスマホをもぎ取ってしまった。あ、ちょっと乱暴すぎたかなと思った時には既に遅く、一樹の口が一気にへの字になる。
「やだー! 電車! 電車!」
「わかった、わかったからちょっと待ってて!」
「電車!」
 さっきまで機嫌よくミニカーで遊んでたのに、二葉が泣き止まない時に限ってこうやってわがままを言う。なんなんだ、なんなんだコイツら本当に。
 私が一人で頑張ってるって言うのに、なんでわかってくれないの。
 二葉をゆらゆらしながら、ぐずぐず駄々を捏ねる一樹をあやして、そうしてようやくDMを送る。『ごめんー、子供が機嫌悪くてちょっと遅れそう』多めの泣き顔絵文字と共に送信し、よし、とスマホを閉じようとしたところで、大輔が帰ってきた。
「何、またスマホ?」
 大輔は私を見て、あからさまに嫌な顔をした。いや違うじゃん、またスマホとかじゃなくて今スマホなんだよ何言ってるんだよと言い返したいけど、そんなこと言ったらまた何か言い返されるのは目に見えてるし、私はとにかく一刻も早く家を出たい。早くこの家を出て、そして、Twitterのみんなに会いたい。
「一樹が電車見たいんだって。見せてあげて、スマホで」
 言いながら、泣き疲れてウトウトしている二葉を大輔に預ける。今から準備して行っても1時間くらい遅れちゃうけど、でも、私は今日どうしてもみんなに会いたい。というか、会ってセックスしたい。五反田で。
「一樹はまだ熱あるけど、多分風邪でしょうって。元気はあるから大丈夫。ご飯は温めて一緒に食べてくれる? 二葉の搾乳は一応2回分置いといた」
 早口でそう言って、洗面台に向かおうとするも、大輔はぼうっと突っ立ったままそこを退かない。
「通してくれる? 私時間ないから」
「……今日も出かける気?」
 大輔の言葉は信じられない、という響きを持っていた。私からしてみれば、そういう謂れをするほうが信じられない。どういうこと?
「そうだよ出かけるよ、前から言ってたじゃん、忘れたの?」
「いや忘れたとか、前からとかそういうことじゃないじゃん。一樹が入院したの忘れたの? 心配じゃないの?」
 来た。以前は確か、不安じゃないのと聞かれた気がする。今日は、心配じゃないの。本当にこの人は、何を言ってるんだろう。
「だからあなたに任せてるんでしょう? あなただって親でしょう」
「そうじゃなくて、母親はお前だろ?」
「わかってるよそんなこと」
「息抜きが欲しいなら土日でよくない? せめて一樹が元気な時とかさ、ほら、まだどっちも手がかかるんだからさ」
「だから私は4つ違いにしようって言ったじゃん、それを勝手に中出ししてきたのはそっちでしょ」
「待って待って」
 大輔は二葉をあやしながら、混乱したように眉をひそめた。
「中出しって、何? どこで覚えてくるのそんな言葉」
 あれ? これって普通に使うんじゃないんだっけ? 大輔の表情が移ったように私も眉をひそめる。あれ? なんかおかしい? 私がおかしいの?
「こう言っちゃあれだけどさ、お前、最近下品だよ。どうかしてるよ」
「どうかって、どうかもするに決まってるじゃん何言ってるの」
 だめだ。これ以上、この人の話を聞いちゃいけない。
「最初から言ってるけど、私は一人で子育てなんて無理なんだって。それでもいいって言うから産んだのに」
 だめ、これ以上、だめ。
「なのに大輔は何もしないくせに文句ばっかり」
「だから手伝ってるじゃん」
 ほら、やっぱりだめだった。
「手伝うって何?」
 大輔は、しまった、というふうに顔をしかめた。
「ねぇ、手伝うって何? 育児は私がしなきゃいけないことで、あなたはそれを手伝ってるだけなの? なんで外野なの、なんであなたは外から見てるの、私はあなたに一緒に子育てしてくださいって頼んだし、それをあなたは了承したからだから中出ししたんじゃないのかよ!」
 ああほら、やってしまった。また私は大声を出してしまったし、中出しって言ってしまった。大輔が私を責めるからだ。私の中の何かを、すり減らしてくるからだ。
 ぎゃーっと二葉の泣く声がする。時計の音がする。聞こえるはずないのに、秒針のカチカチいう音が、私の耳には確かに届いてそうして私を責めたてる。大輔みたいに。
「大声出すなって……すぐ興奮するのやめて」
 大輔は二葉をあやしながら、私をとても嫌なものを見るような目で見る。そういえば一樹の声がしない。さっきまであんなに電車電車ってうるさかったのに。大輔が帰ってきた時は絶対にパパパパってはしゃぐのに。
「手伝うは言葉のあやだよ、悪かったよ。そうじゃなくて、俺が言ってるのはそういうことじゃなくて、このタイミングで飲み会って、それがおかしいって言ってるんだって。お前子供と飲み会どっちが大事なの? お前がそんなんだから一樹が」
「お前って呼ばないでよ」
 視界が急に歪んで、私が今立っている場所がどこなのかわからなくなった。なんで何も見えないんだろう、ああそうか泣いているからか、でもどうしてかな、泣いてなくても、私には常に世界は歪んで見えて真っ暗に見えて要するに何も見えていない気がするの。
「私には翼っていう名前があるの、なのになんでお前なんて言うの、おかしいのはそっちじゃん、私にはちゃんと名前があるのに、」
 Twitterで会った人でさえ、つーちゃんつーちゃんってちゃんと呼んでくれるのに。
「なんで名前も呼ばないで人のことお前とか言う人に私が説教されなきゃいけないの、私はちゃんとやってるじゃん、ちゃんとしてないのはお前とか言ってくるお前のほうだろふざけんな死ね!」
 そうだよ、人をお前呼ばわりする男は最低なクズだって、誰かもツイートで言ってたよ。あれ、でも、人に死ねって言うのはいいんだっけ。だめなんだっけ。
 二葉の泣く声がする。もう聞き飽きたよ、それ。もう限界だって。
「……翼」
 久しぶりに呼ばれた本名は全然しっくりこなくて、私は家を飛び出した。適当なニットにスウェットのパンツに、ひっかけただけのサンダル。どうしよう、メイクだって出来てないし、こんな格好じゃみんなに会えない。こんな、ただの疲れた主婦みたいな、ボロボロの、格好じゃ。
 DMを開いて、謝るとすぐに何人かから返事が来て、つーちゃん、ああほらここには、私をお前なんて言う人は、いない。

🔁ハルさんがリツイート
人妻つー @tsuchan_2chan ・ 6時間
飲み会楽しみにしてたのに、
上の子が熱を出して行けなかった…
本当にごめんね(´;ω;`)
みんなの写真が羨ましすぎるよー!(´;ω;`)
やっぱりオンオペ二人育児は大変だよね。
本当、世のママってすごいなぁ。
💬16   🔁1   💛43

裏で花咲く 第一幕『芽』① へ続く



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?