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型にはめる、はまる、はめられる

私は自分を型にはめるのがとても苦手だ。

就活で時々聞かれる「自分を一言で表すと?」みたいな質問には頭を抱えるしかない。
正直「よくわからん人間」と答えたい。そういうわけにもいかないので、「多面体」などぼかして答える。

「自分を色で喩えると?」も苦手だ。「虹色」に逃げてしまいたくなるが、それだとありふれていそうなので「紫」と答える。「紫」という色の中には、赤紫や、青紫、薄紫、藤色、葡萄色など様々な色がある。青と赤が混じり合っていれば良いのだから、非常におおらかで幅広い色だ。虹色の代わりに有り難く使わせていただいている。

ちなみに「動物で喩えると?」は「猫」一択。今まで周りの人から猫科動物以外に喩えられたことがない。「猫」ではなく「猫科動物」なのがポイントです。

自己分析をしてみる。「自分らしさ」を考えてみる。自分ってどんな人だろう?よくわからない。
大人びているが子供っぽいところもある。
優しいが苛烈なところもある。
お人好しだが腹黒なところもある。
楽観的だが悲観的なところもある。
気が強いが打たれ弱いところもある。
繊細で神経質だが大胆で大雑把なところもある。
いやわからん、わからん。

考え方なども型にはめることができない。
選挙のときは困ってしまう。支持政党はないし、特定の政治思想もない。
ここの部分は〇〇主義っぽいけどこっちは××派っぽいし、でもこれは△△で……と部分ごとなら当てはめられるが、この党を支持する!と決められるほどではない。
だから毎回「えらぼーと」などを使って争点ごとに考えている。
自分が大事にしている価値観はぶれないようなのでいいでしょう。

今まで恋愛的に好きになった人もバラバラだ。「好きなタイプ」を聞かれても困ってしまう。
元彼ビッグデータ(笑)のおかげでだいたいの傾向は掴めてきた。
優しくて、賢くて、熱中しているものがある人、多分。
要素はわかっても、タイプまではわからない。人を型にはめるのも苦手なのかもしれない。型にはめてしまうときもあるけれど。

型に嵌められるのも苦手だ。
「意外」という言葉がちょっと苦手。「意外と雑なんだね」とか、「意外と字汚いんだね」とか、人は何かの要素で私を型に当てはめ、勝手に期待し、その期待と外れたことをすると「意外」と言う。たいていは悪意が全くないので嫌な気持ちになるわけではないが、「なんかすいません」となる。私が几帳面なのは仕事のときだけです。

娘として、姉として、彼女として、生徒として、後輩として、先輩として、社員として、相手に期待された型を察知すると、それに合わせなければと思ってしまう。相手は別に合わせることなんて期待していなくても、勝手に合わせて勝手に疲れる。

人間は型にはめるのが大好きだ。
多分私だって無意識のうちにやってしまっている。気をつけていても、後から気づくことなんてしょっちゅうだ。反省する。

男はこう、女はこう、日本人はこう、東京の人はこう、A型はこう、大学生はこう、Z世代はこう、母はこう、おじさんはこう、LGBTはこう、ADHDはこう。
世の中は私たちが作った型で溢れている。

娯楽としては楽しい。学問などでも、属性による傾向の違いは把握して分析した方がいい。
でも型にはめると見えなくなって取りこぼしてしまうものがたくさんある。無意識のうちに傷つけてしまっていることもある。
主語を大きくしすぎないよう、気をつけなければいけない。

自分らしさの話に戻る。
結局私の「自分らしさ」は、一言で表せないこと、曖昧なこと、掴めないこと、アンバランスなこと、それ自体なのだと思う。
そしてそれが私の強み、魅力になるのだと思う。

表明的なところしか見ない人は「優しい」とか「可愛い」とかで終わる。
感情が激しいところや腹黒いところを知って、「思っていたのと違う」と離れていく人もいる。
「掴めない」ということが、底知れなさに感じて怖いと感じる人もいる。
自分の知っている型に私を当てはめて、安心しようとする人もいる。

私は私の「自分らしさ」を型にはめることなくそのまま受け取り、さらにそれを魅力として受け取めてくれる人たちと長く付き合っていきたい。まぁなかなかいないが。

それ以上に、私は私自身を型にはめることなく、「自分らしさ」をちゃんと貫けるようにしたい。
人に魅力として受け取ってもらえなくても、自分では魅力として認めたい。

そして関わった人を型にはめることなく、その人自身として扱いたい。
まだまだ型にはめた発言が多いことに気づいたので猛省し、今後は気をつける。
もし気づいたら「型にはめてるよ!」とぜひ教えてほしい。

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