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「悲劇の」横瀬浦を散策してみた

台風が通り過ぎた先週水曜日のこと、知り合いが長崎に観光に来たので、案内も兼ねて西彼杵半島を車で1周してきました。

今回は、国道206号線から琴海を通って、まず西海橋(さいかいばし)を目指し、その後国道202号線を目指して大瀬戸から外海(そとめ)のほうに抜けようというルートです。

その知り合いとの待ち合わせ場所をJR長崎駅隣接のアミュプラザ長崎の一階で、としたのですが、これは失敗でした。どうやら数日後に控えていた西九州新幹線の開通イベントかなにかがあったらしく、駐車場に車が殺到していて全然前に進んでいかないという。
長崎なのにこんなこともあるんだ、とか失礼なことを考えてしまったのは内緒にしておいてください…。と言いつつ、気を取り直して国道206号線から西海橋を目指します。

西彼杵半島一周コースは、今回で3回目。長崎に戻ってくる前はこういう長崎県内を見て回るということにほとんど興味がなかったのですが、運のよいことに毎回何か発見があります。

今回も「横瀬浦」というスポットに来れたのが収穫でした。こちらの話が今回の記事のメインですが、まずは知り合いに西彼杵半島を堪能してもらう必要がある。というわけで、まずは西海橋を案内します。

そういえば西海橋は、中学校の部活動の試合で佐世保方面に遠征することがあったとき、その帰りに途中で寄ってもらったのが初めてではなかったかなと記憶しています。

その前後に、両親が連れてきてくれたことはあったかもしれませんが、このあたりの記憶はさすがにあいまいです。なんせ30年以上前の話ですからね!ガハハ!(何がガハハなのかこそわからんが)

こちらが新西海橋。上が車道、下に歩道があります。写真から右手が佐世保湾の方角。
新西海橋から、西海橋の方角(東方向)。大村湾が視界の先に続きます。

西海橋から眺める内海の景色を堪能したのち、今度は国道202号線を目指します。外海には最近世界遺産認定された、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つ、出津(しつ)集落があることで知られていますね。

出津のキリスト教会も一度訪れたことはありますが、もう一度訪れようということで後半戦。しかしその前に、道中「横瀬浦」という標識に目が留まりました。

横瀬浦史跡公園が丘の上にあったので、そこに車を停めて散策してみます。なんと、ここがポルトガル船(南蛮船と呼ばれていた)が最初に寄港した場所ということになっていたんですね。

そんなわけで、長崎市中心部の浜の町にある「思案橋」や、かつて呼ばれていた「上町」「下町」という名称がかつて横瀬浦のものであったことなどを知った次第です。

思案橋があったということは、行こうかどうか思案したその先である遊郭の町、「丸山」があったということですよね。
石碑も立派なものが鎮座していました。

こちらが港のエリアにあった、「南蛮船来航の地」の石碑。ただ、横瀬浦は開港して間もなく、当時の大村藩の内乱で一瞬にして港は焦土となってしまったのだそうで。

横瀬浦公園から見下ろした横瀬浦。フェリー発着所があり、佐世保まで往復で運航していました。佐世保への通勤通学にフェリーというのは味があってよさそうですね…。もっとも運賃が少し高そうな気はしましたが。

まもなく港はこの2年後(1565年)に長崎の福田、さらに5年後(1570年)に今の長崎港に移されていくという経緯をたどったということだそうです。以来横瀬浦が長崎の歴史で脚光を浴びることはなかったらしく、上記『長崎県の歴史散歩』(p72)の言葉を借りれば、「悲劇の横瀬浦」ということになるようです。

なるほど、ここに来るまで全然私などが存在を知らなかった程度には、長崎港近辺と比べると知名度は高くないのかもしれませんね…。

長崎港より8年ほど早く開港450周年を迎えていた計算になりますね。

『長崎県の歴史散歩』(長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史分科会編)(編者の名前長いなオイ)によりますと、横瀬浦は日本で初のキリシタン大名として知られている大村純忠が開港した地で、純忠自身もここで洗礼を受けています。

横瀬浦公園の入口にあった、ルイス・フロイス像。
1563年7月6日、31歳のときに横瀬浦に上陸したとあります。

また、宣教師ルイス・フロイスもここに上陸したということで、フロイスゆかりの地としても知られているとのこと。いや、ここは盲点でした…何も知らなかったのです。ここに来る前は。

長崎甚左衛門純景の巨住宅跡。今はコミュニティ・センターが建っているということだそうです。
通りの名前がポルトガルの人名にちなんでいるのがイイですよね…
長崎甚左衛門の邸宅跡近くの民家には、こんなイラストが描かれてありました。
散策を終えて再び丘の上の公園に戻ります。日葡友好の記念碑などがありました。

ところで日葡友好記念の石碑などを見ますと、日本語に並んでポルトガル語らしき表記が出てきますが、こういうのを見るのがすごく楽しいと感じる程度には、私も外国語学徒のはしくれだということなのでしょうね…?


しかし長崎は面白いなと、自分なりに改めて思います。

なぜといって、「洋学」ゆかりの地そのものでしょう。わが故郷。ポルトガル、オランダ、中国、ロシア、韓国(朝鮮)あたりとの交流がかつて長崎にあって、日本での研究、調査が盛んだった地なのかという感慨というか。

そう思うと、全く関係ないトルコ、テュルクに関心を持ち続けている身とはいえ、自分の地元が今はともかく、かつては国際色豊かな街だったのかと思うと、少し元気が出てくるような気はするのです。

また長崎が外国学で栄える日がいつか来ると、楽しいでしょうけどね… まあ…ないだろうなぁ…と、横瀬浦散策を終えるあたりにはそんなことを考えていました。

ともあれ、横瀬浦一帯はなかなか景観も整備されていて、観光向けの場所にはなっているように思います。みなさまも長崎に来た折にはぜひ横瀬浦に行ってみられてはいかがでしょう。オススメです。

ここが蘭学・洋学ゆかりの地になっていたかもしれない世界線を想像するだけでもごはん何杯かいける…かも…しれません…しらんけど…

長崎の勉強、地元にいる間は続けようと思っています。マガジンにまとめていきますので、なかなか西に来れないとお嘆きの方はぜひ上記マガジンなどご覧いただきたく。

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