「悲劇の」横瀬浦を散策してみた
台風が通り過ぎた先週水曜日のこと、知り合いが長崎に観光に来たので、案内も兼ねて西彼杵半島を車で1周してきました。
今回は、国道206号線から琴海を通って、まず西海橋(さいかいばし)を目指し、その後国道202号線を目指して大瀬戸から外海(そとめ)のほうに抜けようというルートです。
西彼杵半島一周コースは、今回で3回目。長崎に戻ってくる前はこういう長崎県内を見て回るということにほとんど興味がなかったのですが、運のよいことに毎回何か発見があります。
今回も「横瀬浦」というスポットに来れたのが収穫でした。こちらの話が今回の記事のメインですが、まずは知り合いに西彼杵半島を堪能してもらう必要がある。というわけで、まずは西海橋を案内します。
そういえば西海橋は、中学校の部活動の試合で佐世保方面に遠征することがあったとき、その帰りに途中で寄ってもらったのが初めてではなかったかなと記憶しています。
その前後に、両親が連れてきてくれたことはあったかもしれませんが、このあたりの記憶はさすがにあいまいです。なんせ30年以上前の話ですからね!ガハハ!(何がガハハなのかこそわからんが)
西海橋から眺める内海の景色を堪能したのち、今度は国道202号線を目指します。外海には最近世界遺産認定された、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つ、出津(しつ)集落があることで知られていますね。
出津のキリスト教会も一度訪れたことはありますが、もう一度訪れようということで後半戦。しかしその前に、道中「横瀬浦」という標識に目が留まりました。
横瀬浦史跡公園が丘の上にあったので、そこに車を停めて散策してみます。なんと、ここがポルトガル船(南蛮船と呼ばれていた)が最初に寄港した場所ということになっていたんですね。
そんなわけで、長崎市中心部の浜の町にある「思案橋」や、かつて呼ばれていた「上町」「下町」という名称がかつて横瀬浦のものであったことなどを知った次第です。
こちらが港のエリアにあった、「南蛮船来航の地」の石碑。ただ、横瀬浦は開港して間もなく、当時の大村藩の内乱で一瞬にして港は焦土となってしまったのだそうで。
まもなく港はこの2年後(1565年)に長崎の福田、さらに5年後(1570年)に今の長崎港に移されていくという経緯をたどったということだそうです。以来横瀬浦が長崎の歴史で脚光を浴びることはなかったらしく、上記『長崎県の歴史散歩』(p72)の言葉を借りれば、「悲劇の横瀬浦」ということになるようです。
なるほど、ここに来るまで全然私などが存在を知らなかった程度には、長崎港近辺と比べると知名度は高くないのかもしれませんね…。
『長崎県の歴史散歩』(長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史分科会編)(編者の名前長いなオイ)によりますと、横瀬浦は日本で初のキリシタン大名として知られている大村純忠が開港した地で、純忠自身もここで洗礼を受けています。
また、宣教師ルイス・フロイスもここに上陸したということで、フロイスゆかりの地としても知られているとのこと。いや、ここは盲点でした…何も知らなかったのです。ここに来る前は。
ところで日葡友好記念の石碑などを見ますと、日本語に並んでポルトガル語らしき表記が出てきますが、こういうのを見るのがすごく楽しいと感じる程度には、私も外国語学徒のはしくれだということなのでしょうね…?
しかし長崎は面白いなと、自分なりに改めて思います。
なぜといって、「洋学」ゆかりの地そのものでしょう。わが故郷。ポルトガル、オランダ、中国、ロシア、韓国(朝鮮)あたりとの交流がかつて長崎にあって、日本での研究、調査が盛んだった地なのかという感慨というか。
そう思うと、全く関係ないトルコ、テュルクに関心を持ち続けている身とはいえ、自分の地元が今はともかく、かつては国際色豊かな街だったのかと思うと、少し元気が出てくるような気はするのです。
また長崎が外国学で栄える日がいつか来ると、楽しいでしょうけどね… まあ…ないだろうなぁ…と、横瀬浦散策を終えるあたりにはそんなことを考えていました。
ともあれ、横瀬浦一帯はなかなか景観も整備されていて、観光向けの場所にはなっているように思います。みなさまも長崎に来た折にはぜひ横瀬浦に行ってみられてはいかがでしょう。オススメです。
ここが蘭学・洋学ゆかりの地になっていたかもしれない世界線を想像するだけでもごはん何杯かいける…かも…しれません…しらんけど…
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