見出し画像

【アンカラ滞在記】あの事件の当日、私はどこで何をしていたか

この記事は、シリーズ「アンカラ滞在記」のコンテンツの一部です。他の記事は、以下のリンクからどうぞ。

2016年7月15日、トルコ近現代史的にもおそらく重大な出来事として記憶されていくと予想される(たぶん)、あの事件がトルコでは起こっていました。

当時私はアンカラに拠点があったことは間違いありません。当日の夜はヘリが上空をしょっちゅう飛んでいて…と、言いたいところなのですが…

幸か不幸か、私はその瞬間、トルコとは地理的にだいぶ離れたところにいました。それも、東京でへべれけになっていたというオチ。

「なんか起こってるね…」じゃあないんだよ。

その後、とんでもないことが起こっているということを、現地の知り合いや報道などで徐々に知っていくという展開となりました。

長崎新聞の一面が、トルコのクーデタ未遂事件で埋まったのを見て、これはとんでもないことになったなと思いました。トルコへの「帰国」は1週間後でしたが、そもそも、トルコに入れるのだろうかとも。

一方で、当時の所属先からは「一刻も早く戻るように」という勧告のようなものは来ていたようです。

ともかく、私はあの日、年休を利用して日本に一時帰国していたのでした。ですので、幸か不幸か、歴史の目撃者にはなり損ねたと言えるのでしょう。ただ、トルコに戻った後のなんとも言えない街中の空気は今でも覚えています。

画像1

2016年7月26日、アンカラにて撮影。国旗とアタテュルクの写真を街中の至る所で見たように記憶しています。

命の危険を感じたとか、そういうことは全くなかったのですが。この国、これからどういう風に進んでいくんだろうかという漠然とした不安みたいなものは、誰もが感じていたのではないかなと今になってみると思います。

そういえば、私が現地在住だとどこで知ったのやら、SNSを介していくつかのメディアから問い合わせはありました。当時、こちらもピリピリしていたということはありまして、かなり感情をツイートにもぶつけていたようです。

ジャーナリスト、いないのかとね…これは今でも少し思います。まあ、実際現地の空気もわからないとあっては、渡航するかどうかは悩むのが普通なんでしょうけど。それにしたって…という感想は今も個人的にはあります。

しかし、生存報告という点ではSNSは役にたったと思います。

その節はみなさま、お気遣いを賜りありがとうございました、と言いたい…

トルコで仕事をして、初の休暇を使った一時帰国でしたが、上記の事件があったので、なかなか後味の悪いものになったな…ということだけはやはり忘れようにも忘れられません。

それでも、トルコに戻ればやはりまた日常を過ごしていく必要がありました。私個人は、1年半ほど住んでいたアンカラ郊外のアパートから、市内中心部への引っ越しを予定していたのです。

すでに日本への帰国前に、物件にあたって契約も進んでいたところでしたので、とにもかくにも決めた以上は引っ越すしかないという状況でした。忙しかったので、その意味では変に不安になったりしなかったというのはよかったのかもしれません。

引っ越しの話は、また次回の記事にでもまとめてみようと思います。

それにしてもトルコ、この事件の前の年から不穏な事件が起こってはいましたが、あの時期は変に目立ってしまいましたよね…当時の正直な感想のツイートが残っていました。

ほんとにこれ。

あとは、日本での報道のされ方にも…もちろん私はどんな意味でも、「トルコ側」の立場にはないわけですが。

正直、今もマスコミという存在に対してあまりいい感情は持っていないかもしれません。

(次回に続く!)




記事を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。Çox təşəkkür edirəm! よろしければ、ぜひサポートお願いいたします!いただいたぶんは、記事更新、また取材・調査のための活動資金に充てさせていただきます。