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女であり、男でもある「わたし」

出生時に性器の形などから、お医者さんなどに「女の子」「男の子」と判断され、役所に届け出ることで割り当てられる性別。
法律的な性別だけでなく、性自認や性的思考の自由が叫ばれて久しいですね。最近ではトレンディドラマでもL‌G‌B‌T‌Qが題材になるものも多くなってきました。

わたし自身も、職業柄「女性用の……」という言葉は、わかりやすく便利なので使うことが多いのですが、その発言により嫌な気持ちになる人がもしいるのなら、あえて分けたくないという気持ちのほうが本音です。

特に子どもたちに性の話をするときには慎重に伝えたいもので、わたしなりに、ちょっとだけ楽しい性別の考え方をお話することもあります。

わたしたちは、どの人も「お母さん」から生まれてきました。お父さんから生まれてきた人はいません。

でも、お母さんだけでは命はできない。「お父さん」の命の種が必要です。

その事実は何十年、何百年、何千年経っても変わらないこと。どんなに医療が発達したといっても、まだ人間はヒトの細胞をクリエイトすることはできません。(できなくていいと思っていますが)生命の誕生の時代からオスとメスが愛し合う営みを継続して、今、ここに「わたし」という存在があるわけです。

さて、この「わたし」はどちらの性で構成されているでしょう? 自分が「女性」と呼ばれるからといって、これまで血を分けてくださったご先祖さまのなかには「女性率が高い」という人はひとりもいませんね。

全人類に共通していえることは、「等しく」創られた存在だということ。

すべての人が男であり女であるし、もし正確に分類するとなると、本来ならば100人いたら100通りの性の種類が存在することになります。

性は個性そのものだからです。

よく「性はグラデーション」だと表現され、虹色がそのシンボルに使われています。それは性は多様であるという意味からだと思うのです。

その多様性を、誰かが決めた「らしさ」で分けて、認識しやすくし、またその違いを、楽しんでいる。

それは性別のことに限らず、国籍や肌の色、背の大きさ、文化や性格や障害のあるなしなど、すべては単なる「違い」です。でもその違いを感じるおかげで、自分を認識でき、相手を認識でき、仲間として心地よく過ごせたり、好きになったり、嫌いになったり。人生がより素敵なドラマのストーリーに創られるんですものね。そのことにみんなが気づいて、わかったうえで、安心して自分を表現できる世の中に、早くなればいいのになと思います。


【嫉妬は自愛のチャンス】

「女として生まれたかったな」
「男は生理がなくて羨ましいな」
「もっと背が高くなりたかった」

他者を羨ましく思って嫉妬する、というこの感情は、とても人間らしい感情のひとつだと思うのですが、悪い方向にはたらくと、心を苦しめ、陰気になってしまいかねませんね。特にそれは自分に自信が持てないときや、自分になにかが不足していると感じたときに、起こりがちです。

嫉妬の感情が湧いてきたときに、やってほしいこと。
それは大きな声で「やった!」と言うことです。

なぜなら、それはチャンスを見つけられた瞬間だから。

誰かと比較するのが得意なあなたは、逆に自分のほうが勝っているところも見つけることは容易でしょうし、自信のないところや自分に不満があるところをたっぷりと満たし、成長させていくためのキッカケに出逢えたのだから。

想像してみてください。

もし自分とまったく同じ人ばかりが周りに存在していたとしたら? この世は、絶対に、まったく面白くない! 違いがあるから、自分も他者も愛せるのだと思います。

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