染まるよ。

 歩き慣れていない東京の夜道を歩くことにも、少しずつ慣れてきた二十歳の夏。僕は煙草を初めて吸った。銘柄もちゃんと覚えてる。ピアニッシモのメンソール。理由は簡単でパッケージがかわいかったから。コンビニでバイトをしていたこともあって、自分では吸わないのに銘柄だけはたくさん覚えていた。

 高校を卒業して、大学生になって上京して2年。二十歳になっても、僕自身は何にも変わらなかった。大人になったような気がしていたけど、中身はそのままで、大学に通って何とか単位を取って、部活をしながら毎日遅くまで友達と遊んで、そんな中で彼女と出会った。

 東京生まれで、浪人してて1つ年上の彼女は僕にとっては眩しかった。入学式の歓迎会で初めて喋った。同じ名字で席が前後だったから。人懐こくて、小さくて、涙袋がかわいい、良く笑う。どっから来たのとか、何が好きなのとか。たわいもない話しかしていないんだろう。けど、1日経ったら彼女のことを気になっていた単純な男。

 幸いにも同じ授業が多かったし、学科も仲が良かったから話をすることがたくさんあった。多分緊張してしまっていた僕の話を、彼女はいつも聞いてくれた。彼女以外の女の子ならおしゃべりになれたのに、なぜか彼女の前だとカッコつけてしまう自分がいた。

 2回フラれた。僕以外にも彼女のことを好きな男はたくさんいて、みなさんあの手この手を使って彼女の気を引こうとする。僕もそんな男たちの一人で、遊びに誘って吉祥寺とか下北沢に行った。そしてタイミングを見計らって告白した。結果は2戦2敗。

 「ごめん。」

 その言葉を聞くのはけっこうきつかったけど、それでも嫌いにはならなくて、またほとぼりが冷めた頃にご飯に誘った。

 3回目。デートコースは鉄板だけど我ながら完璧。3度目の正直で今度は行ける気がしてた。その時彼女に付き合っている人はいなかったし、共通の友人からも「今度はいけそうだよ」って言われてたから。

 散々待たされた結果呼び出されて、出された答えはまたしても「ごめん」だ。なんでその時彼女が泣いていたのかはわからない。いや、泣くなら付き合ってくれてもいいんじゃない、とか思ってた。でも、泣くのは反則だ。思考が停止して、どうしていいかわからないままに駅の改札まで送った。

 帰りにコンビニで煙草を買った。初めて吸う煙草。思い切り吸い込んだピアニッシモの煙にむせて、道端で咳き込んだ。ふかし方も知らなかった二十歳の僕は、とぼとぼ歩いて一人暮らしの家まで帰った。耳にはイヤホン、iPodからはチャットモンチーの「染まるよ」。何にも染まってないけど。大人になったらいつか煙草を吸ってみたかった。こんなタイミングはないんじゃないかなと思った。

 いい時も悪い時も、「今これをしてみたらどうなるんだろう」って思う瞬間が時々ある。初めての煙草に好きな音楽。ああ、確かに今僕は悪いことしてるみたいだ。高校時代は絶対に吸わないよって言ってた煙草。部活で禁止されている煙草。身体に害がある煙草。悪いってわかっていても、たまには自分からシチュエーションに酔ってみるのも悪くない。

 他の人にとっては何でもない帰り道。明日からはまた変わらない日々が続いていく。多分僕は彼女のことをまだ忘れられないだろうな。そして、初めて煙草を吸ったことも忘れない。

 次の日の朝は気持ち悪かった。後味はサイテイだ。けど授業に行って、広い教室の後ろから遠目で見た彼女は、変わらずに笑っていた。

 それから時間が経った。チャットモンチーは解散したし、きのこ帝国にカバーされた「染まるよ」は13年前の曲になった。卒業して社会人になった。平成が終わって令和が来て、僕は三十一歳になった。付き合うことはなかったけど、それなりに遊んだりもした彼女は結婚して、この前子供が生まれた。

 飲み会の帰り道。もう慣れきった東京の夜道。一人で煙草に火をつけて、煙を吐き出す。その時、国分寺駅から恋ヶ窪へと続く道が少しだけ頭に浮かぶ。

 ピアニッシモ。少し細くて長い煙草。ふかし方も知らなかった二十歳の僕。「ごめん」は十年経っても正しくて色褪せない。あの頃はいつだってあなただけだった。嫌わないでよ、忘れないでよってね。

 今はね、忘れてくれていい。苦い煙草も好きになったし。プカプカふかす煙草と私と僕。


 

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