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2021年7月20日 光話『波動』〜文字起こし全文〜

波動は変えられるのか?

よく「波動は変えられるんですか?」と質問がきます。
波動は、皆さんの思いの振動なんです。
で、言葉の振動なんです。
だから皆さんが、破壊的な思い、破壊的な言葉を語っているときは、波動は乱れます。
しかし皆さんが正したときは、即、また愛の波動に変わります。
皆さんの思いが、言葉が、常に一定しているならば、皆さんの波動は乱れません。変わる必要もありません。

波動ほど、見事に変わるものなんてないですよ。
一瞬一瞬の皆さんの思いに、言葉に、行為に、波動は常に移り変わります。
愛を思い、愛を語り、愛を行為しているときは、美しい振動をしています。
分離感で、うらみや怒りや嫉妬に燃えているときは、また破壊的な振動をしています。

じゃあ、低い波動から波動を高めたい。波動を変えたい。
簡単なこと。
常に意識を変えることですよ。

波動は意識。
意識、波動。
で、波動は、皆さんの命を表現する、そのエネルギー、振動ですよ。
だから常に波動を安定させるためには、常に神との一体を思うことです。
意識して顕現することです。
ならば、波動は絶対乱れることはない。もう永遠に安定した愛の波動を放ちますよ。
波動ほど移り変わるものはないです。
一瞬一瞬の皆さんの思いで波動は変わりますよ。
偽我意識であってみたり、また神(真)我なる意識を持ってみたり、コロコロ変わりますよ。
だから常に、我、肉体にあらず、我、命なり。
「我、命なり。我、神なり。我、真理なり」ならば、その波動は絶対に高くなったり低くなったり、あるいは破壊的な波動、また建設的な波動、変わることないです。

波動には四つ

花々だって波動を放ってますよ。カタチとして、香りとして、色として、音色として。
だからカタチあるものは、神が創造し具現化させたそのカタチには、4つの波動を放っています。
もしそのカタチからエネルギーの振動が放ってなければ、そのカタチは皆さんの目には映りません。
そのカタチからエネルギーが振動しているがゆえに、そのカタチから皆さんの目に映るんです。
だから、カタチは波動なんです。

皆さんが○(丸)が○(丸)に見えること、△(三角)が△(三角)に見えることは、振動を放ってるがゆえに見えるんですよ。
振動を放ってなければ、そのカタチなんて見えないです。

じゃあ、色は?
色も波動です。香りも波動です。音色も波動です。
だから、この現象の世界にあらわされたすべてのカタチは4つの波動を放っています。
カタチ、色、香り、音色として。
それを皆さんは、すべて美しきそのひとつにまとめていってほしいんです。
バラバラではないんです。
カタチは常に常に安定した愛を顕現することです。
一瞬一瞬、皆さんの思いによって波動は変わりますよ。
言葉で波動は変わりますよ。
皆さんの行為で波動は変わりますよ。
だから、絶対であるならば、常に常に、我、愛なり。我、命なり。我、真理なり、に定着させることです。
すべての存在の本質は命なり。
すべての存在の本質は愛なり。

愛しかない

まあ、愛を勘違いしている方々もいるけど、愛は、完全意識を「愛」と説くんですよ。
イエス・キリストが磔(はりつけ)にされて、心臓に矢を突き刺そうとする者に、
「神よ、この者たちは、命においてひとつであることを知らないゆえに、愛はすべてのすべてのなかで完全であることを見失っているがゆえに、今、間違いをおかそうとしていることをゆるしてほしい」と言ったんですよ。
不完全な愛なんてないんです。
愛は無限にして完全意識を「愛」というんです。
じゃあ、今の今、「命」を生かされているならば、「愛」生かされているならば、皆さんは本来は完全意識であって、人をうらんだり、憎んだり、嫌ったり、愛せない、ゆるせないの、そのようなあなた方ではないんです。
すべてのすべてあってあるものに実在しているのは、無限にして完全である「愛」しかないんです。
皆さんが正しい目をもっているならば、我、愛なり。すべては愛なり。
で、己が愛であって、あなた方が悪であるはずがないですよ。
だから、ただただ表現の違いであって、その者の理解のなさで、表現の違いであって、本当の本当の悪人なんていないんですよ。
で、皆さんは良いことをしている人が善人。悪いことをしているのは悪人と言うけど、本当は善人・悪人ではないんですよ。善・悪ではないんですよ。完全人(かんぜんびと)なんです。本来は。
人という肉体を持った完全以外にはいないんです。本来は。
ただ人間が、良いことをしている人は善人と決めつけて、悪いことをしているのは悪人と決めつけていることであって、本来、本質の世界に善・悪はないんです。

もちろん、兄弟同士で戦い傷つけ合うことを、私はそれが良いとは言ってませんよ。
その者は、本質を見失っているがゆえにそういう行為をしているんです。
それは、イエス・キリストが完璧に正したではないでしょうか。
「神よ、この者たちは命においてひとつであることを知らないゆえに、で、愛を完全として見失っているがゆえに、今、間違いをおかそうとしていることをゆるしてほしい」と言ったんです。
「間違いをおかしている人間を責めなさい」とは説いてないんですよ。
私もこの四十何年では、想像もできぬ体験を積み重ねてきているんです。体験してきてるんです。

戦争に「愛」を
うらみや怒りや嫉妬に「愛」を

たとえばですよ。いつも皆さんの前で説いている簡単なこと。
私がボリビアにセミナーで行くときに、パスポートを申請しに山梨の甲府に行ったといいます。
で、私は手続き終わって、何月の何日の何時に受取りにきてほしいって日付を言われて、私は書類を持って帰りました。
で、指定された日付に受け取りに行きました。私はソファーで静かに座っていました。もう、全一体意識のなかに入ってます。
だから、すべてのすべてが、そこに命を与え生かされているものを手に取るようにわかります。
事務所に活けられている花々の状態。で、周りに植えられている白樺の状態が手に取るようにわかります。
「我は命なり、すべては命なり」の境地ですから。
みんながそれぞれ列をつくって並んでいるところに、ある男性が割り込んで前にきたんです。
その割り込んだ男性は、一言注意されました。
その男性がもう怒り狂ったこと。
私もかなり怒りの言葉というのは今まで吐き出してきたけど、私でも身震いするほどの破壊的な言葉で、あのカウンターで手続きしている事務の方に暴言を吐いてます。

事務所に活けられている花々、周りに植えられているその白樺や木々。ここで暴言を吐いても、あれだけの距離を離れていれば何も感じ得ないと思うでしょう。
その波動には、時間も、空間も、壁も、距離もないんですよ。
もう、その怒りのバイブレーション・波動に振動しているんです。
愛の振動ではないですよ。怒りの振動ですよ。もう身震いしています。
もし私が、その者に怒りや、裁きや、そういうものを向けていたならば、もっともっと最悪な状態が起こっていたと思うんです。
私はその法則を知っています。

戦争に愛を。
うらみや怒りや嫉妬に愛を。

それを知っているんです。
だから、私はその暴言を吐いたその男性に愛の波動で祈りました。
何分も経たないですよ。何分という時間も要さないですよ。
すぐ堅いコンクリートの上に土下座して、その男性が暴言を吐いた相手、その事務の方に「心から詫びます」って土下座して謝ってるんですよ。

だから、私はすべて体験から語るんです。
私はそういう体験をしてなければ、皆さんの前に語る資格なんてないですよ。
だからそれほどの愛という愛を知っているんです。

愛は戦争を癒します。
この人の心の中は戦争で荒れ狂っていたんですよ。
あの人ゆるせない、嫌い、憎い。その怒りで。

じゃあ、どうしたんだろう?
その戦争が癒されたんですよ。
ただ戦争は、武器を手にしてバンバンやっていることだけが戦争だと勘違いしているんですよ。
その男性の中では、憎い、怒り、嫉妬、これ戦争なんですよ。その人の心の中で。
だからそこを皆さん知ってほしいんですよ。
戦争というのは、私と誰彼が武器を持ってバンバンやり合っていることだけが戦争ではないですよ。
私の心の中で怒り狂い、怒りという波動が振動しているならば、これは、もうすなわち戦争ですよ。

神よ、どうかこの者に愛を。心に安らぎを。
で、その愛の波動でどうだったのか。
戦争が癒されたんですよ。戦争が収まったんですよ。
皆さんと我々がまた一体となって、その波動を拡大させることができるならば、また国と国とで武器を持って、戦い合っていることもまた治めますよ。

これは現実にあった話で、ある戦争のど真ん中に、完全意識の中に融合できる、明想できる方々が3名か4名かで座って明想したときに、その戦争は止んだという話も私は聞いてるんです。
だから、戦いで戦いを止ますことはできません。
じゃあ、武器が増えれば増えるほど、何が増えるのか?
葬式が増えますよ。悲しみが増えますよ。
だから我々は、愛というのは特別ではない。
女性・男性を特別にどうこうすることではない。
完全意識であることを「愛」というんです。
皆さんの本質そのものなんです。

常識と書きますよ。常識、常在る意識。
常在る意識は、完全意識であって、不完全な意識ではないんです。
だから、常に皆さんがどういう表現の中でも、
神が完全であるように、我、完全なり。神が完全であるように、すべてが完全であるように、皆さん自身が思えるあなた方であってほしいんです。
おそらく、私がそのパスポートを取りに行ったときのあの状態で、逆であったならば、その怒り狂う者に私が裁いたり、非難したり、そういう波動であったならば、一層一層、破壊的な波動が増幅したでしょうね。


今、地球が聖なる星へとなるための浄化

じゃあ、そういうことからみることができるならば、今、地球上で起こる天変地異・天候異変、事件・事故。
つい最近、フランスかどこかでも、もう想像もできない水害だったといいます。何百人という人間が死ぬほどの。もう世界いたるところで、そういう現象が毎日のように起こっているんですよ。
今まで日本で起こる事件でも事故でも、一週間も二週間も同じニュースが続いたんですよ。しかし、今はどうなのか?
もう一瞬一瞬にそのニュースが変わってるんですよ。同じものが一週間ともう続かないですよ。
ネガティブな、そのバイブレーションで起こる現象がありすぎるんですよ。破壊的なその波動で。
これがあるべき姿ではないんです。
すべてのすべての美しさが具現化されて、これをニュースにすることが本当のあるべき姿なんです。
毎日のように想像もできないほどの破壊的な現象が今、起こっているんです。
まあ、それは我々はアセンションというこの時代を迎えて、建設のための破壊であることも知っているがゆえに、皆さんは動揺もすることがないでしょうけど、ここまで人間が汚れなかったならば、あるいは地球を、この破壊的は波動で覆わなかったならば、ここまでの痛手をみることはなかったでしょうに。
だから、今回は一点見のがすことなく大掃除されますよ。

いちばん大切なことは、表面で荒れ狂う波に絶対にのまれないことです。
これから表面はもっともっと荒れ狂ってきますよ。
今年の最初にも説いたでしょうけど、「序の口ですよ」と説きましたよ。
「今でも百年生きてこんな体験はもう初めて」という出来事はいっぱい現れてますよ。世の中に。今の世の中に。百年一度も体験ない。
そういう現象が、これからどんどん現れてきます。

なぜならば、不完全な状態で皆さん完全と言いましょうか?
不完全な状態を放っておいて、良い建設ができましょうか?
良い建設であるためには、今までのネガティブなものは根こそぎすべて大掃除しないといけないんですよ。
これ、私は破壊のための破壊ではなく、すべてただ破壊しつくすための破壊ではなく、建設のための破壊であることを、私はその意味で説いているんです。
じゃあ、皆さん自身の内側に膿(ウミ)があるとしますよ。それを潰さぬかぎり、皆さんの体は健康になれないのと一緒ですよ。
皆さんの内部に膿があるならば、それはうらみの膿でもいい、怒りの膿でもいい、嫉妬の膿でもいい。その膿は根こそぎ潰さぬかぎり、皆さん健康になれないのと一緒なんです。
今生こそ、地球は聖なる星へとなるために、今までの積み重ねてきたその汚れを大掃除しているだけにしかすぎないんですよ。
それを皆さんは浄化作用というんですよ。

で、その浄化作用というのは皆さんにも起こってます。
ひとりひとりに起こるとともに、家庭の中で、またその地域で、でまた日本で、それをすべて重ねていって「地球」となるんですよ。
しかし、いちばん大切なことは、浄化はしましたよ。しかし、せっかく浄化したのに、また新たに思い、言葉、行為、それでまたまた自分自身の中につくり上げていく人間が多いんですよ。
まあ、今はそんなに聞くことはないけど、今までは、「風邪ひいて浄化作用です」「熱出て浄化作用です」「どういう病気で浄化作用です」。
で、またまた次のセミナーで会っても、またそう言うんです。また次のセミナーで会っても、そう言うんです。
私はその人たちに言ったことがあるんです。
「あなたはもうセミナー会場で会うたびに、私、風邪ひいて浄化作用、熱出して浄化作用、何で浄化作用と言うけど、あるいはまたガンで浄化作用と言うけど、あなたの浄化作用はいつ治まるの?」と言ったことがあるんですよ。
「じゃあ、肉体脱ぐまで、はい、浄化作用です。浄化、浄化、浄化です、で終わるんですか?」と言ったことがあるんです。

本当のヒーリングとは

それが、病気癒しから学んだことですよ。
病気を癒したって喉元過ぎれば熱さ忘れる。
その病気癒しを、私は本当のヒーリングだと思いました。
ヒーリング…これが絶対愛だと私が勘違いしている当時です。鈍感な私でも思いましたよ。本当のヒーリングが、相手のその病いを癒すことであるならば、癒えて、二度と再び来るはずはないのに、癒してはまた来る、癒されてもまた来る。私は一体全体、何をしているんだろう?って、そこから本当のヒーリングを追究してきたんです。四十何年も。
だから、どんなガンを癒したって、これがヒーリングでないことを知ったんです。
病気癒しならば病院に行ったほうがいい。痛み止めを一本打てばすぐ治る。すぐ痛みは止まる。
それがヒーリングだったんだろうか? で、私は四十何年も追究してきました。

本当のヒーリングというのは、皆さん自身が、無限意識・普遍意識・宇宙意識へ融合している状態。
で、人間意識・肉体意識・個人意識という偽我の我から、神我なる意識へと目覚めている状態を本当のヒーリングということを私は知りました。
これはイエス・キリストがマクドナルド・ベインという方にオーバー・シャドウして説いている本、『心身の神癒』に説いてますよ。
本当のヒーリングというのは、外の我から、内なる我への融合と説いていますよ。
だから「我、肉体なり」では、本当のヒーリングでもない。
それよりも我々は、いつでもいるころ、行く場所で、完全意識であることが、絶対なる奉仕なんですよ。

今日の朝、電話で質問に答えたときも、(質問された方は)、「全世界の兄弟姉妹になんとかしたい、どうにかしたい…」と言うけど、あなた自身がどこにいて何をやろうではないんです。
すでに、いるところで、行く場所で、我、命にして完全であり、で、神として完全である、その意識状態にあることが、これが全世界への奉仕なんですよ。
あえてどこそこに出向いていって何をやろうではないんです。
もちろん、津波や地震で家屋を失い、着る物も、食する物も失っている者がいれば、そこに手伝ってあげることを、私は悪いとは言ってません。
しかし、我々の本当の奉仕というのは、いるところ行く場所で、「我、神が完全であるがごとく完全なり」。命として、完全であることを常にその境地であること…。
たとえどこそこへ奉仕に行ったって、もう意識は、思いは、常に良い・悪いで動いているんじゃ、何の奉仕なんだろう?
逆に、肉体もって向こうまで運んで、不平不満でその仕事に就いているならば、そこに破壊的な波動を、あえてあえてそこに破壊的な波動で満たしいったんですよ。

神が完全であるように、我、完全なり。
神が完全であるように、あなた方も完全であってほしい。

それは、皆さんがどこ行かずとも、そこで皆さんはやっていけるんです。
皆さん、必ずしもインドに行かなければ、あるいはヒマラヤに行かなければ、我、完全なり、と思うことができないと思いましょうか。
「我、命なり」「我、真理なり」「我、完全なり」は、皆さんがそう思うこと、そう意識することは、誰彼からも縛られてないですよ。
たとえ皆さんが監獄の中にいて、この肉体を閉じ込められていても、
「我、完全なり、愛なり、で、命なり」は思うことできるんですよ。

だから、この肉体は、手錠で縛られていても、この肉体を監獄に閉じ込められていても、皆さんの意識を縛れる機械や道具や物はないんですよ。
誰が皆さんの意識を縛れた者がいるだろうか?
誰が皆さんの意識に手錠をはめることができるだろうか?
だからこそ皆さんの意識は、無限にして完全自由なんですよ。

観自在・無碍自在・自由自在。

監獄にあるのは、この物質肉体です。
病院に、あのベッドの上に寝かされているのも、この肉体物質です。
皆さんの本質はどこに?
本質という無限のなかにあるんですよ。
今でもそうですよ。
しかし皆さんは「我、肉体なり」と肉体を意識しているがゆえに、ここにあると思っているんですよ。

今、皆さんの本来の意識は、無限意識・普遍意識・宇宙意識という、その大海のなかにあるんですよ。大海そのものとしてあるんですよ。
ただ、「肉体を我」という錯覚で、無限意識を、「無い」と錯覚しているんですよ。
だから、無限という本質のなかに無いものなんて、この宇宙にひとりだっていないですよ。なぜ?
命そのものが、そのものなんだから。
ただ我々は、この肉体という道具を我、という錯覚をしていることであって、これが真実のあなた方・私ではないんですよ。

だからこそ、錯覚から覚めよ。幻覚から覚めよ。夢から覚めよ、で訴えるんです。
今でも皆さんは、私は肉体なり、と思っているでしょうけど、皆さんの無限という意識・本質は、そのものとして、無限のなかにあるんですよ。
無い、と錯覚しているだけですよ。

おとぎ話にもあると思うんですよ。
無限というなかにありながら、分離して、「ある」と錯覚しているんです。
だから、無限意識しかないところから、どんなに「私、肉体なり」と思ったところで、離れることはできないですよ。そう錯覚しているだけであって。
なんてそれを理解させることの難しいことか。

皆さんが、「私は肉体」と言ったって、皆さんは無限のなかにあるんですよ。
皆さん、無限から分離して生きていると思いますか?
無限しか実在しないところから、皆さんは分離しようがないんですよ。
どんなに、「我、肉体なり」と錯覚したって、皆さんは無限のなかにあるんですよ。
これを皆さんが理解してくれるならば、今の今、すべてのすべて、あってあるものは、もうすぐひとつと感じ生きることができるでしょうに。
ひとつの命、ひとつの体。
一命一体・自他一体・全一体として。


明想は、“そのもの“であるための行為

ただ皆さんは、「表現するこの道具を私」と錯覚をしているだけであって、皆さんがどう思たって皆さんの意識は無限のなかにあるんですよ。
無限意識しかないんだから。
どんなに皆さんが縮めようたって縮まらないですよ。
無限そのものなかにあって、無限そのものであるがゆえに。
それはじゃあ、どうやってそのものを感ずることができるか?
明想・内観・ヨーガ・座禅というその方法なんですよ。手段なんですよ。

だから、「明想が内観とは違う」「内観とヨーガとは違う」「ヨーガとまた座禅」とは違う、ということはないんですよ。
明想・内観・ヨーガ・座禅というのは、「我は本質なり」という実感…実際に感じ生きること。実感のために手段としてそれを我々は与え生かされているんです。与えられているんです。
だから、悟るのに明想する必要はない、と教え説いているのもいるでしょうけど、
明想は、そのものであるための行為なんですよ。そのものであるために。
もう言葉では、「我、神なり、我、仏なり、我、命なり、我、本質なり」。これはもう、耳にたこができるほど、皆さんは耳から聞いてきたと思うんです。

じゃあ、なぜそう生きることができないのか?
そのものでないから生きることができないんですよ。
そのものであるにもかかわらず、そのものであることを認めきれないから。
しかし、もう皆さんが、明想・内観・ヨーガ・座禅というその手段・方法で、それを味わったときは、もうそのときから「私が命を否定しろ」と言ったって「命」を生きますよ。
「神は実在ではないから神を否定しろ」と言ったって否定しないですよ。
皆さん、味わったその味を、否定することができるだろうか?
味わった味を否定する人間なんて、世界にひとりだっていないですよ。
味わっているならば、その行為ができるんです。
で、その行為は、まず皆さんが味わい…覚醒といいます。
味わったその行為ができるならば、愛を味わったならば、愛の行為ができるならば、それを「覚醒」「顕現」というんですよ。
まず皆さんが愛を味わう…覚醒ですよ。
で、愛が表現できる…顕現ですよ。
これを「真我覚醒」「真我顕現」といってるんです。
だから、真我顕現が先ではないんですよ。まずは、味わいが先ですよ。

皆さん、味わえなければ、このオレンジの味はどうですか?って私が聞いたって、答え切れない。味わっていないから。
しかし命を味わったならば、命はあってあるもの、すべてに生き働く命であることを知って、我、命なり、あなた方も命。すべての命がひとつであることを知ったとき皆さんは、全一体の境地に至りますよ。

一つの命、一つの体。
一命一体。
そのとき世界は平和なんです。
一つの命、一つの体。
一命一体・自他一体・全一体。
自分と他は分離とは書かないですよ。
自分と他は一つと書くんですよ。
一体なり。

これこそが真理なんです。
だから、真理を学んでいながら、一人だってゆるせない、嫌い、憎い、愛せないがあるならば、それは真理は悟っていないですよ。

真理ならば、我が命ならば、すべては命なり。
我がキリストならば、すべてはキリストなり。
我が無限ならば、すべては無限なり。
我が愛ならば、すべては愛なり。
これが真理だったんです。

しかし今の宗教は、我々の宗教は…、あなた方の宗教は…と説くんですよ。
我々の神は…、あなた方の神は…で説くんです。
我、というのは全体の我であって、分離した我なんていないですよ。
なぜ我々がいるんだろう?
全体の我なんですよ。
私であるあなた方。あなた方である私がいるんであって、分離した私、分離した我々は、どこにも存在しないんです。
ただ、無形無双の神は、ここに顕現するためには、「私」「我」「自分」「己」というその言葉で顕現するがゆえに、それを分離で説いて錯覚しているでしょうけど、私であるあなた方、あなた方である私であって、すべての面で我でもいい、自分でもいい。

私が自分を追究したといいます。小さいときから。
自分とは何者なんだろう?
自分とはすべての自分、全体の自分、無限にして一元なる自分はいるけど、分離した自分なんていないんです。
まあ、今は90億の人間か80億かわかりませんけど、もし今の地球人口90億と言われるならば、90億の人間、で、皆さんが私という、この自分に向けて「私」という思いを持ってですよ。私と違った命に生かされている人間が、世界のどこにいるのか皆さんが探しきれるならば大したものですよ。
どこにどこに、私と違った本質がいるのか。
どこに、私と違った命に生かされている者がいるのか。
探してみてください。
もう入口からもう諦めますよ。
なぜ?
私の命、動物の命もない。
私の命、鉱物の命もない。
私の命、植物の命もない。
わが命は、すべての命だったってことをすぐ実感しますよ。
それを、「命は一(いつ)にして多身」と表現しているんです。
姿、カタチ、形態は異なっていても、表現の方法は異なっていても、生まれ出てきた場所、環境は違っても、皮膚の色が黒かろうが白かろうが、命には高い・低いもない、大きい・小さきもない、特別もない。女性・男性もない。日本人、中国人もない。

ただ、その命を皆さんは、皆さんのその特質を持って、誰にも真似ることのできない素晴らしい役割を背負ってでてきているんです。

皆さん、たとえば人体がありますよ。まあ、これは宇宙人の目に似てるけれど…(笑)
はい、目よりは口がいい。口よりも耳が偉い…絶対あり得ないですよ。
また、たとえば、お腹切り開けば、心臓があります。盲腸、肝臓、腎臓、いろいろな臓器がちゃんとセットされて一人体(いちじんたい)が仕上がっています。
じゃあ、どっちがどっちよりも上・下、良い役割・悪い役割があると思いましょうか。
絶対ありえないと思うんですよ。
この目よりは耳がいい。耳よりは口が偉いとか、絶対ありえないですよ。
心臓よりは胃がいい。あるいは胃よりは何が悪い、いいは、絶対にないと思うんですよ。
これ今、人体というものにまとめたけど、宇宙そのものの仕組みがそうなんですよ。
だから、あなた方は絶対に「私はダメ」なんて、そのようなものを生かされている人間はいないですよ。誰だって。
もう、ひとりひとりが…見てみてください。これで全体で一人体を構成してますよ。
じゃあ、私の見る皆さんひとりひとりは、もうすべてが美しいしかないんですよ。
なぜ美しい自分を醜くするんだろうと思うんです。
上も下もないところに、特別もないところに、何を見るんだろう? 何を言い出すんだろうと言いたいんです。
ただ、この現象の世界でちょっと知識を持てば偉いと錯覚をしているんです。
ひとりひとりがまとまって宇宙なんですよ。
なぜならば、皆さんが今生、肉体を去っても、命として無限に実在していますよ。
あなたが一人欠けることにおいて…欠けるということは絶対ないですよ。
皆さん、誰彼が欠ければ、欠けると思います?
欠けないですよ。
ただ肉体をいう衣装をまとっているか、脱ぐかの差であって。
ただ不可視の質量に還る…このカタチある質量は不可視の質量に還りますけど、命は増えたり減ったり、膨らんだり縮んだり…あり得ないですよ。
無限にして…初めから無限ですから、無限にしてそこにあるんですよ。皆さんは。

もうその境地を皆さんが味わうことができるならば、あの者が、この者がで、いと小さき無常なものに振り回されて一転生人生をここまで歩んできたんだろうか、と皆さん思いますよ。
なぜ?
あの者が、この者がどう言ったって、真実ではないんですから。
真実は、「たとえ」という言葉を使っては語れるけど、真実を語る言葉なんてないんですよ。
皆さん、見えない真理がどうして見せることができましょうか?
見えない真理がどうして言葉に語れましょうか。
どうして文字や絵で書き示すことができるでしょうか。
それは、皆さん自身が実感、実際に感じ味わい、それをたとえ方便で皆さんが言葉にして、行為にして、兄弟姉妹を導いていくことなんです。


スクリーンで愛を演ずる

だから、このスクリーンに映されるということは大切なことなんですよ。
イエス・キリストの本質は観えませんよ。命そのものであるがゆえに。
しかし、イエス・キリストだって、我々と同じように、この世のスクリーンに映されて、無限のゆるしと無限の愛を十字架上でみせてくれたんですよ。
あのスクリーンに映されてなければ、イエス・キリストもそれも示すことはできてないんですよ。
我々と同じように、このスクリーンに映されて、この影を映して、無限のゆるしと無限の愛を全世界の人間に教え伝えたんです。
だから、スクリーンに映されるということは悪いことではないんですよ。
ただ皆さんに、このスクリーンに映されて、どういう思いで、どういう言葉遣いで、どういう行為で演じているんだろう…なんです。
だから、地球は愛を演ずる舞台と、私は言うんです。
愛を演ずるスクリーンと言うんです。
このスクリーンがなければ、イエス・キリストだってそのスクリーンに映されなかったならば、この愛を演ずる舞台に立たなかったならば、我々に、「本来のひとりひとりの本質は無限の愛です」ということを示すことはできなかったんです。
スクリーンに映されたればこそ、無限のゆるしと無限の愛を教え、人類の本質を我々に明かしてくれたんです。
「神よ、この者たちは命において一つであることを知らないゆえに、愛にしてすべては完全であることを見失っているがゆえに、今、間違いをおかそうとしていることをゆるしてほしい」と言ったんです。
「神よ、どうかこの者たちに光を。心に安らぎを。」
ということは、あの十字架は、無限のゆるし、無限の愛を顕現した十字架なんです。
無限の愛です。
無限のゆるしです。
だから、裁きではないですよ。
神が、裁きの愛、となったならば、十字架に磔にされたときに、あの者はゆるせない、あの者に罰をで裁いていると思いますよ。
我、何人も裁かず。
我々も間違いをおかしている方々を裁いてはならないんです。
非難・批判ではないんです。
もちろん、言葉で手伝える方もいる。本当にこの表現は、神からして正しい表現だと思うのか?で、それは聞く耳ある者にはそれは言えると思うんです。
しかし、言えば反発するのもいます。
正そうとすれば、また怒り狂う者もいます。
その者は、あなた方の意識の段階まで本当に完成、で、成長するまで願いみることですよ。
神よ、どうかこの者に光を、心に安らぎを。
どんなに悪いことをしているからとて、裁いても、非難しても、怒りでそれを戦ったって悪循環ですよ。

戦争に愛を。
怒りに愛を。
で、嫉妬に愛を。
うらみに愛を。
なぜならば、この宇宙には「愛「という、本来は「愛」という一文字しかないんですよ。
その「愛」いう一文字を、いろいろな言葉で、「神」と説いてみたり、「仏」と説いてみたり、「命」と説いてみたり、「本質」と説いてみたり、「完全」と説いてみたり、いろいろな側面から説いているでしょうけど、その「愛」という一文字が「神」なんですよ。
だから、「神は愛なり」「愛は神なり」と言うんですよ。
我々が知りたい一文字が、それが「愛」だったんですよ。
これは私が「愛」と一文字書いた額に、全部この世の本が吸い込まれた…この世の本だけではないと思うけど、あの何万冊という本が吸い込まれる体験もしているんです。
このように、本当に理解力をもって顕現していきたいと思います。
ありがとうございました。


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