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対話について昔考えていたこと

昔、自分の書いた、対話についての文章を見つけた。

対話でできることを自分なりに考えてみる。まず思いつくのは、自分の中の知識・経験の可視化されることによる知識の増大。対話が内省をうながし、そのことで、知識が棚卸しされ解決できる問題が増える。
次に思いつくのは他の人の知識によって得られる「ひらめき」による知識の創造。新しい知識が創造されることで問題解決の幅が広がる。この「ひらめき」が連鎖し積み上がれば、思わぬ広がりや深みが得られるかもしれない。
対話で背景を共有することができれば、お互いに同じ視線で話ができるようになる。同じ視線で話すことで、意気投合すればチームができるかもしれないし、チームになれなくてもお互いを認め合うことが出来れば、少なくとも対立は解消する。
対話を深めれば、対立軸/相違点の止揚による新たな知識の創造ができるかもしれない。対立軸/相違点があっても、そこで保留せず、そこを新たな起点として対話を深めることで対立軸が止揚できるアイデアが生まれるかもしれない。
対立を認め、その上で生まれたアイデアは、普通の思考の延長にないものなので、必ずイノベーティブなものになる。そのようなアイデアがさらに「ひらめき」を誘発させ、それが積み上がれば、知識は乗数的に増加する、しかも数だけでなく、広がり/深さも生まれる。
そう考えると対話では、「知識を乗数的に増やすことで解決できる問題を増やす」、「背景の共有によることで対立を解消する」、「背景を共有してチームをつくる」ことが出来そう。
対話で問題解決、対立の解消、チームの組成ができるかもしれない。しかし、それはまた新たな問題、対立を引き起こすかもしれない。とすると、対話とはある意味、姿勢で、それをいかに続けていくのか、それが一番大切なのかもしれない。

https://ameblo.jp/sakura-plan/entry-10763141684.html

記事は2011年の1月のもの。10年以上前のものになる。当時は対話によって、集合知を作ること、ビジョンを共有するチームを作ることで、今の状況を打破できる、変革できる行動をおこすことを考えていた。文章の最後に、その行動によって問題を引き起こすかもしれないとしているところは、我ながらなかなか面白い。対話とは何か、その対話を通じて自分は何をしたいのかを考える上で、昔の自分の考えながらも、自分の考えだからこそ、非常に役にたった。


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