見出し画像

論文マラソン34 廣田孝「美術工芸学校と京都画壇」

おはようございます☀
今日の論文は、廣田孝さんの「美術工芸学校と京都画壇」(『美術京都』3号、1988年)です。

目次構成:
1.はじめに
2.画学校の創立と京都画壇
3.画学校以前の画家養成
4.画学校の教科内容
5.京都画壇の世代交代と美工の充実
6.栖鳳の教育方針
7.絵専設立後の美工

画学校以前の教育:徒弟制度
画学校設立:徒弟制度によらず、学校教育で画家になれる可能性がひらけた。
画学校の教育:手本主義、実技実習ばかり.だけど、徒弟制度によらない学校教育には、生徒の個性伸張と、開放的な画家養成への芽があった
明治25年の規則改正:流派にとらわれず、生徒の学びたいものを教えるようになる。でも、運筆重視
明治33年の栖鳳の渡欧:「写生」重視へ。ここでの「写生」は、対象を知り尽くした上で対象の要点を写す。→対象把握の重要性、個性的な表現への広がり
→美工の教育方針も「手本主義」から「写生」へ変化。
明治35ー37年の卒業制作における変化:西洋画の影響、写生の重視+個性的表現、実験的作品

21分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?