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「人の役に立つ人になりなさい」という言葉は、子供には禁句だと思う


昭和生まれの人ならば、一度は誰かから言われたことがあるだろう
「人の役に立つ人になりなさい」

という言葉。


最近この言葉がとても気になる。

気になる理由


それはコロナになって、私の仕事(エアラインスクール、客室乗務員や
グランドスタッフになりたい人たちのための、塾)が減ってしまったことに起因する。


私のせいではないのに、仕事が減ってしまったことで
「自分はみんなに必要とされていない」


とまで思った時期があったからだ。

この言葉が自分の口から出てきたときに、自分で驚いたし、なんでこんなこと考えてるんだ、と問いかけた。

その際に、知り合いの方から
「必要とされてないわけではないけど、必要とされていなくても生きているだけで
いい」

と言われて、はっと目が覚めた。


「忙しい=人の役に立っている」
と思い込んでいたし、それが生きる意味なんだ、と思わされていたのだ。


確かに、母親から「人の役に立つ人に」ということを言われていた記憶があるが、
父は言っていなかったことにも気づいた。

なぜこの言葉を子供に言わない方がいい、と思うのか

それは「人の役に立たない人は、意味がない」

と、間違って受け取る可能性があるのではないか、と思うからだ。


明石家さんまさんは、ご自分のお嬢さんに「いまる」という名前をつけた。
その由来は「生きてるだけで丸儲け」

という意味だということは、皆さんご存知のとおりだ。

当時は「変わった名前だな」
と思っただけだったのだが、やっぱり、天才はすごい、と思う。


「生きてるだけでいいんだよ」


ということを、親が自ら子供に言っているなんて、そしてそれを名前にするなんて、なんて素晴らしい、と今は思う。


私も娘を持つ母親だが、生まれてきてくれてありがとうと思ったし、今でもそう思うし、息子を亡くした経験から、「生きてくれているだけでありがたい」
と思う。


もちろん、生きている間に自分がやりたいことを見つけて、それに夢中になり、
結果として誰かの役に立ったのであれば、よかったね、ということになるのだが、
最初に

「人の役に立つ人になりなさい」


と言われるのは、ちょっと違う、と思っている。

多分生まれてきた時点で、何かをやりたくて(使命ではない、使命という言葉も強制感があって最近は嫌な言葉だと思う)生まれてきているだろうし、それをやがて見つけていくだろうし、それが人の役に立つかもしれないし、立たないかもしれない。

でも、それでいいんだ、ということ。

親でさえ、子供の人生をコントロールはできないし、してはいけないと思うのだが、


「国家資格が取れる学部に行くなら、大学に行っていい」

とか

「教員になるんだったら、東京の大学に行っていい」(地方出身者の場合)

という親御さんがいるという話を、大学関係者の方や、娘の同級生から聞いたりした。


それってある意味「脅迫」ではないか、と思う。

でも子供は経済力がないから、結局親の言う通りの学部や大学に進学する。
でもその進学した先で、「自分は保育士になれって言われて進学したけど、
実習に行ってみて、子供が嫌いだと分かったから、一般企業に就職したい」
という短大生がいるという話も、大学の先生から聞いた。


「子供の人権』という点からも、間違っていることがあるような気がするのは
私だけだろうか。

これからの時代


これからの時代は、自分の好きなことを追い続けていい時代なのだと感じる。
それで生活できなければ、最低限の生活費を別の手段で稼げばいい。

その方がずっとストレスなく生きられる。

もちろん、ちゃんと正社員として働いて、お金をしっかり稼ぎたいという人はそうすればいい。

でも、一人一人求めているものが違うので、誰も人に強制はできないし、
正解なんてものもない。


「私は生きているだけで意味がある」

そう思っただけで、または声に出して言ってみただけでも、元気になる気がする。

コロナによってマスク生活を余儀なくされている子供達が、自分たちの思う通りに生きていけるように、と心から思う。


だって、子供はみんなの宝なのだから。


上野 博美

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