時間屋 〜音のない時間〜

 カウンターに座ってコーヒーを待っていると、隣の席から男が声をかけてきた。男は禿げていて、ヒゲを生やしている。白いワイシャツに黒いジーパンの、身なりにはあまり気を使っていないタイプのようだった。
 「今日は曇っていますね。歩いてこられたようで、家は近い人ですか?」
 突然、他人の懐に飛び込んでくるやつだと思った。眉毛は少し上がっていて、悪意はないらしい。口元は笑っているが、目は真っ直ぐにこちらに向けていて、いつでも素性を暴いてやろうというような鋭い雰囲気だ。
 「いえ、だいぶ遠いですよ。ただ、ちょっと遠出してやろうと歩き始めたら、思いのほか体が軽くて、気分が乗りまして。気付いたら、このお店に入っていました。」
 店にはカウンター席が僅か5つしかない。先ほど金勘定をしている店主が、昔、ラーメン屋をやっていた人から譲り受けた場所で、バタバタと動かなくても客と話ができる良い空間だと語っていた。店内には、店主と私と、隣の男の三人しかいない。音楽もかかっていない静かなところで、ときおり外を走る車のエンジン音が響く。

 落ち着かない店だ。
 小さい頃から音に囲まれて生きてきた。音のない時間はほとんどなかった。朝は母のピアノの音で起き、父は子供が起きるや否やクラシックを流し始めた。兄はそんな音から逃げるように外へ散歩に出掛けてしまうことが度々あった。暇さえあれば様々な作曲家の交響曲を聴かされていた。弦や金管の主張が響きわたる間、言葉を発したり物音を立てたりすることは禁じられていた。「音が逃げる」というのが父の口癖で、集中して聴かないことには音楽も雑音に変わってしまうのが君にはわからんのかと、洗濯物をたたむ母に怒鳴り散らかしていた。
 だから、初めて音楽喫茶という存在を知ったときには驚いた。バックグラウンドミュージックなるものを「流し」ていて、店内では新聞がガサガサと広げられ、いろいろな食器が遠慮なくガチャガチャと音をたて、あげく客と店員が「ご注文は」「コーヒー」「かしこまりました」などと会話していた。ありえない光景だと思ったし、同時に、自分の生育環境が異常で狂っているのだと自覚した。

 音のない空間は気味が悪い。しかし、店に入ってしまったからには一杯飲んでサッと引き上げてしまおうと決めた。
 と、隣の男が退屈しのぎを思いついたように話を振ってきた。
 「お兄さん、碁は打つの?」
 「初段もないですが、一応は」
 「そうかい。じゃぁ、打たないか。なぁに、途中の30手くらいやってもらえればそれでいいさ。」
 男が私を誘うと、カウンターの中の店主は、またかという風な顔をして奥へ案内した。
 「コーヒー、出しますけど、ちゃんと冷める前に飲んでくださいね。」
 スタッフオンリーと書かれた扉を開けると正方形の机の上に碁盤が置かれていた。
 男は椅子に腰掛けると、さっそく黒石をジャラジャラと握って盤の上に置いた。私も白石を握り、2つだけ盤に出して男に示した。碁には、どちらが先に打つかを決めるやり方がある。
 「ニーシーロク…、12か。オレが黒だね。」
 先手は黒と決まっている。

 男は石を持ってバチッと盤上に叩きつけた。交点に黒石がひとつ光った。宇宙にかがやく星だ。私もすぐさま白い星を盤上に生み出した。
 碁は領地の大きさを競うゲームである。馴染みのない人間からすると、領地を分け合うイメージが強い。だが実際には、複雑な意図が絡み合い、切ったハッタの激しい戦いが繰り広げられるという、決して穏やかではない性質を帯びている。
 男は大きく領域を広げた。相手が「それは許さん」と踏み込んできたタイミングで一気に押しつぶし、蹴散らしながら自陣を確かなものにするつもりらしかった。
 欲張りな輩だと思った。「こんにちは」と笑顔で挨拶をして、初対面にもかかわらずガハガハと無遠慮に肩を叩き、さも旧知の仲になった顔をするような失礼な奴だと思った。
 30手と思っていた碁はどんどん進んでいった。
 やがて男の思惑通りの乱戦になり、私の白い星たちは黒い奇妙な軍団によって取り囲まれそうになった。とにかく今までの蓄積を活かさねばと、黒の一団を突き破り、相手の場をかき乱していった。しかし、無理はたたるもので、次第に石は活力を失い、ついに小さく生かされるだけに終わった。男は闘いの中で着実に領土をものにした。
 相手の作戦に乗ったふりをして、優勢を築くつもりだった。しかし、いつになっても黒の主張に終わりが見えない。男は盤上でいつまでもガハガハと笑っていた。
 黒はじわじわとテリトリーを張っていって、少し悪くなりそうでもガハガハの姿勢を崩さなかった。予定では、黒の模様を荒らし、白が大勢を築いていた。結局、白石は取られなかったが、白の領域は小さく小さく押し込められ、対照に、黒は盤全体を躍動していた。

 「ありません」と私は敗北を宣言した。
 しばらく沈黙が続いた。すっかり冷めてしまったコーヒーを片手に、言葉にならない気持ちを抑え込んだ。
 手の震えがおさまったころ、私は自然と男にたずねていた。
 「なぜ、私は負けたんでしょうか。」
 男は一瞬ギョッとして、額をボリボリと掻きむしった。
 「なぜって、あんた、それはオレが聞きたいよ。形も良いし、急所も外さない。オレは終始、負けたなと思いながら打っていた。」
 男は途中まで並べて「ここに打たれていたら困っていた」などと検討を進めた。男の手によって白と黒の新しい模様が描かれていく。石が示す様々な可能性の中に、私は気付いた。
 「やりたいこと、あるんですけど、無いんです。」
 碁とは関係のない、どうしようもなく無様な悩みだった。
 男は検討中の手を止めて顔を上げた。
 「何か、やりたいと思う。けれど、消える、ということかい?」
 私は残り少なくなった黒い液体をのぞきこんだ。眼が2つ、こちらをギョロリと見ている。陰影がハッキリしていて、シワの深くなった自分の顔が揺れた。
 「最悪です。全く、最悪の気分ですよ。」
 私はコーヒーを飲み干すと、ふぅとため息をついた。すると机の向こうからも、同じように深く息を吐く音が聞こえた。
 私は男の表情をのぞいた。悲喜交々という言葉はあるが、嬉しいも悲しいもひとつの顔の中にぐちゃぐちゃに混ざってどうしようもなくなってしまうこともあるのか、と私は思った。
 男は石を片付けながら攻撃的な言葉を吐いた。
 「碁くらい、遊べよ。なんでも人生と関係をつけてちゃぁ、つらいね、そりゃぁ。」
 私はとたんにムッとして、言葉を返すことなく席を立ち、店主に金を払って店を出た。

 「あれは、どれくらいだ?」
 コーヒーカップを片付け、店主は領収書の整理をしている。
 「だいたい30くらいだよ。見るからに充実感がなさそうだった。」
 男は頭の中で先ほどの対局を並べなおしていた。
 「だまってジッとサガっていれば、ここだって、黒が悪かったんだ。どうして相手の石にツケたがるんだろうなぁ。」
 店主はグラスを磨き始めた。
 「焦ったんだろう。」
 「そう、焦ったんだ。でも、焦らない奴もたくさんいるだろう?オレはずっと、そんな冷静な奴らに憧れてきた。オレもそういう格好良い態度で人生をやりたかった。でも、無理だった。何かやりたかった。何かやっていなかったら、落ち着かなかったんだ。」
 カップをのぞきこむと、中の男はヒゲを生やし、すっかり毛のなくなった頭に店の電球が反射していた。
 「ああでもない、こうでもないと、もがいただけ楽しくなったよ。」
 「碁も、そうだよねぇ。」
 グラスを磨き終えた店主はシンクを拭きながらニヤッと笑った。
 「碁と人生を、一緒にするんじゃぁねぇよ。」
 男は耳の後ろをボリボリとかきむしった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?