西洋の歴史(中世)①

西洋の建築史(中世)を取り上げる前にその歴史をざっくりおさらいしようと思います。少し長いので①と②に記事を分けます。ご了承ください。

「世界の歴史まっぷ」より

・民族移動と混乱から「中世」が始まる

ローマ帝国の東西分裂後、大航海時代やルネサンスが始まるまでの約1000年間を中世という。民族移動に関して。まず4世紀頃に東部でアジア系のフン族圧迫から逃れるために東からゲルマン人が押し寄せていく。そしてゲルマン人は元々住んでいたケルト人やラテン人を圧迫して移動先に次々と国を建てていった。この移動の混乱の中で「西ローマ帝国」は滅亡。
やがてフランク王国(フランス)が力を持ち西ヨーロッパの中心勢力となる基盤を固めていく。そこでもキリスト教は力を持っていて国を上げて正統派のカトリックに改宗。後にカール大帝が王位に就き戦いに次々と勝利することで広大な領土を手にすることに。(現在のドイツ、フランス、北イタリアにまたがる広さ)そこにローマ教皇レオ3世が接近し西ローマ帝国の冠を授けキリスト教の勢力が拡大していく。やがてその広大な領土は分裂し東フランク王国(→ドイツ)、西フランク王国(→フランス)、イタリアの3つに分かれた。東フランク王国はキリスト教会と関係を結び神聖ローマ帝国に、西フランク王国は不安定な状態に、イタリアも乱れジェノヴァやヴェネツィア、ピサといった地方都市が力を持つようになっていった。

・第2,第3の民族移動はヨーロッパの北と東から

ゲルマン人の大移動に次ぐ2つ目の民族移動はノルマン人による北ヨーロッパへの移動だった。ノルマン人は北欧諸国やフランス北西部、南イタリア、イギリスやロシアなどに次々と国を建てていく。
そいて3つ目の民族移動はスラブ人による主に東ヨーロッパへの移動だった。東スラブ人といわれた人々は「ロシア人」に、西に広がった人々はポーランド人、チェック人(チェコのルーツ)に、南はセルビア人やクロアティア人へとなっていった。これらスラブ系の国々は宗教や国家による分断が進み東ヨーロッパに多くの国が密集する要因となった。

・1000年続いたビザンツ帝国

ビザンツ帝国は、ローマが東西に分裂した後の「東ローマ帝国」のほうを指す。西ローマ帝国は民族移動の混乱等により100年も経たずに滅亡してしまうが、ビザンツ帝国の方は民族移動の影響が少なく1000年以上も永らえた。その間は都(コンスタンティノープル)を中心に商業と貨幣経済が繫栄。しかし、ササン朝、イスラーム勢力等との抗争、勢力争いや十字軍による都の占領等により衰退し、最後はオスマン帝国によって滅亡してしまう。

・まとめ、考察

広大な領土を支配していたローマ帝国がキリストの国教化やゲルマン人の大移動等によって崩壊し東と西に分裂してから中世の時代が始まった。中世前半は主に西ローマ帝国において3つの民族移動があった。①ゲルマン人の大移動→西ヨーロッパへ、②ノルマン人の民族移動→北ヨーロッパへ、③スラヴ人の民族移動→東ヨーロッパへ、と移動をし様々な国家を樹立していく。これに対して東ローマ帝国は民族移動の影響が少なく1000年続いていく。この様にして民族構成や言語・文化に影響を及ぼし、その後のヨーロッパに「多様性」を与えていった。この次の記事では中世においても力を強めていき「統一性」をもたらしたキリスト教をメインにしていく予定。
これまでの流れを自分なりに考察。中世前半を一言で表すと「移動と対立」だと言えると思う。現代の視点から西ヨーロッパの歴史的繁栄を考えた時に、もちろん地政的な要因はあると思うが、外圧による自己分裂、自己組織化が進み進化の速度が速かったのではないかと考える。様々な国に分裂して競い合い対立が深まり、やがて世界を巻き込む2度の大戦争を引き起こしてしまうが、現在はEUとして一応連携を保っている。(が、いつも大陸側と距離を取っているイギリスは離脱)そんなヨーロッパの歴史を見てみるとローマを下地に、民族移動による分裂・対立があったのだと知ると今が見れて面白い。今後はどうなっていくのだろう。

最後まで読んで頂きありがとうございました。以下の資料を参考にさせて頂きました↓

一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書
公立高校教師YouTuberが書いた · 山崎 圭一


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