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この世に生まれてきた意味 母の死編

こんにちは

ほぐしびとwordsです。

タイトル通り…今回は母が病気、死、その後を書いていきます。

私が39才になってすぐに…母は骨髄異形性症候群と言う血液の病気になった。余命半年。骨髄移植をすればと言われたが…母の姉妹は全て型違い。骨髄バンクも当てにならない。死を認め残った時間をどう過ごすかを考えるしかなかった。

私は…自分に返ってきただけだと思わざる得なかったんだ。人を呪い殺した人。代償として命と引き替えだったんだと。その事を口にしたことはない。が…母はわかっていたはずだ。

無菌状態で生活しないといけない。自宅ではかなり難しい話。入院を余儀なくされるも母は拒み続けた。猫の世話があるからと…私は猫アレルギーがあるためお世話は難しい。じゃぁ誰が…母がやるしかないと意気込みが…死を近づけるだけ。説得して私が世話をするから。絶対に手放さないからと。当時は猫も減り6匹になっていて、猫だけの部屋がある。私は毛が服に着かないようにウインドブレーカー上下、マスクに手袋、メガネ。毎回完全防御。やるしかない。

入院先は私の職場の近くだったので毎日顔を出した。『またあんたかい。マー君は?』行く度に聞かれる…知らねぇし。『猫達はどう?』孫の心配しろ!『おにぎり食べたい』無菌の決まったものだけだろ!でも作って行くと…『こんな菌だらけの物食べれるかぁ』とゴミ箱に投げ捨てられる。『おまえの顔見飽きた!もう来るな』よし行かねぇからな。『なんで今日来なかった。裏切者』来るなって言っただろぅが…病気になった母はいつも以上にキツく当たってくる。私は仕方ないと思うことにした。私にしか我儘を出せないから。誰かが受け止めてあげなきゃいけないから。

ある日長い長~い手紙をもらった。10枚綴りの手紙。私が小さい頃から今までの事を場面毎に謝っていた。【本心ではなかった…でも憎たらしくてたまらなかったと…何をやってもヘラヘラ笑う私を気持ち悪く思った。でも私の子供だから頑張らなきゃと思ったようだが…どうしても腹が立つ子だった。でも本当にごめんね。】と書いてあった。上げては落とす手紙に何が言いたいのかまったくわからなかった。だか震えた字で想いを綴った母を嫌いにはなれなかった。

最後に書いてあった言葉…『マー君と仲良くね。二人だけの兄妹だから』無理だった。私は…どうしてもそこには共感を得ることが出来ない。

1月24日母はこの世を去った。母の母親、姉妹、兄家族、そして私達家族。みんなで看取った。ただ…私達家族は蚊帳の外。母は御見舞いに来てくれた人達に私が母にされたことを私がやったように話していたらしい…最後の最後にやられたぁ~。あんなに手紙で謝り嫌いになれなかったのに…糞ババァ~まぢでふざけんなぁ💢亡くなった悲しさは一つもなかった。怒りしかなかった。親戚一同に怒鳴り散らされ葬儀もまともに出れない状態だった。骨を拾うことも出来ずに終わった。

母が持っていた宝石類は何故か一つずつ名前が書いていた。母の姉妹の名前、姪っ子の名前、兄嫁の名前。私達家族の名前は一つもなかった…これって私が働いて知らぬうちに宝石に変わっていたやつじゃない?はぁ~最悪だ。私に暴言はいている奴らに渡すとか…あり得ない。暴れたくなるぐらいの怒りが…涙なんて出ない。頭から火が出る。目が炎。

そんな私を見てゆうやが『汚い宝石はいらないだろ。お前の金を奪って買った宝石だぞ。汚くないか?すったらもんくれてやれ!』あんなに怒りが治まらなかったのに…スーっと覚めていくのがわかった。本当にありがたかった。ありがとうって思うとようやく涙が出てきた。

四十九日の法要が終わった瞬間に『仏壇を兄の家に運ぶから』と…はぁ?と思ったが好きにしてくれと思った。

私はゆうやと母が亡くなる2か月前に籍を入れていた。だからもう旧姓を名乗ることもない。新しい人生を歩める。私達家族は私の親戚と2度と逢うことがなくなった。

読んでくださりありがとうございましたm(__)m人を憎んだり恨んだりすると必ず自分に返ってくる。唯一母から学んだことです。母は外ではとても良い人でした。だからこそそのストレスが全て私のところにきただけ。だから私は罪を憎んで人を憎まず。憎むことで自分が醜くなっていき、良いことも悪く見えてしまうから。

次回はこんな黒歴史があっても~今の自分が楽しく愉快に生きてるよ‼️を書いていきます。ありがとうございましたm(__)m



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