【ネタバレ有】シン・エヴァンゲリオン。(Air/まごころを、君に)とは違うメッセージ。
シン・エヴァンゲリオンを見てきました。
1995年にテレビで放送されたときからすでに四半世紀が過ぎた。当時、高校生だった自分はもういいオジサンになってしまいました。
自分の人生を変えたといっても過言ではないこの作品がようやく終劇。前回の劇場版(Air/まごころを、君に)のときは、なんかスッキリしない気持ちで映画館を出た気がしますが、今回は、心穏やかな気持ちで映画館をでることができた。
さようなら、全てのエヴァンゲリオン。
これが一番ふさわしい感想。
以下、詳細な感想なのでネタバレになります。
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これくらいなら見えないかな?
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最終決戦のシーンが圧巻
ヴンダーが突っ込んで、大量の気持ち悪いエヴァが出てきたところでアスカとマリのエヴァ2体の投入。
ここからの戦闘シーンは圧巻でした。
めちゃくちゃテンションあがった。
今シリーズの劇場版は戦闘シーンすべていい。
過去シリーズにくらべて映像のテンポやカメラワーク的なものが全然違う。
この戦闘シーンだけでも見る価値はある。
とりあえず白のプラグスーツの2人のフィギュアがクレーンゲームででたら絶対に取る(戦闘シーン関係ないw)。
壮大な親子喧嘩
要するに大人になれなかったお子様なゲンドウのわがままと同じく大人に認められたいお子様なシンジの親子喧嘩。
最後2人がエヴァで戦ってるときに、迷惑な親子喧嘩だな……
愛する人(ユイ)に会いたいからって世の中めちゃくちゃにしないでよ。
と思った。
最終的には争うのではなく、しっかりと向き合って話し合う。
シンジ君は大人に成長して、世界は再生され、ある意味平和な新世紀を創る(ネオンジェネシス)わけですが、それにしたって、、、、
マリエンド
一番の驚きのマリエンド。
まさかマリとラストを迎えるとは思いもしませんでした。
マリは今回の劇場版の破から登場した新キャラ。
昔からのファンでアスカかレイのラストを望んでいた人も多いはず。
それが、まさか、破から出てきたよくわからんキャラでラストとは。
と思いましたが、マリはこのラストのために出てきたキャラで当然の帰着なのかもしれない。
最後のほうで冬月先生が、マリに向かって
「イスカリオテのマリア君」
と言います。
イスカリオテを調べてみると「イスカリオテのユダ」がでてきます。
ユダといえばキリストを裏切ったとされる有名な弟子。
ですが、ユダのことではなさそう。
というかイスカリオテは地名っぽい。
で、その考察ですが下記が一番納得感ありました。
実は、けっこうマリ好きだったので、個人的にはマリエンドでも不満はないです。
最後は実写で宇部新川駅
庵野さんの故郷が山口の宇部。故郷がでてくるということは、ようするになんだかんだでエヴァは庵野さんの物語だったんだなと思った。
僕ら観る側のことは正直どうでもよくて庵野さんのひとり語りな作品とも言える。たぶん、そこに不快感を持つ人は多そう。
ただ、作品はそういうものかなと。作り手が作りたいようにしか作れないし、誰かのためにつくるとしても、その誰かは会ったこともない他人なわけもない。観る側のほとんどが、ある意味無関係かもしれない。
それでもアニメから実写になって駅から出ていくシーンは
目の前のことから目をそらさずに現実世界で生きていこうぜ
という庵野さんからのメッセージだと思ってます。
つまり伝えたいこと
前回の劇場版も同じような生きていこうというメッセージではあったと思います。
人類補完計画が上手くいかずに最後にシンジとアスカで「気もち悪い」というセリフ。
前回は、人は所詮一人で、それで生きるしかないよ。うじうじしてるお前気持ち悪いよ。
というラストメッセージだったのかもしれない。
同じように生きるというメッセージだけど、
旧劇は 仕方ないじゃん
シン劇は 納得して(受け入れて)
現実世界を生きよう、というメッセージのスタンスの違いかなと。
このメッセージのスタンスの違いは、庵野さんが大人になっただけのかもしれない。自分も大人になったので共感できた。でも、25年は時間かかりすぎ?
今回はマリと手をつないで終わるということで人はそれぞれが一人(他人と違う個人)だけど誰かと一緒に生きていけるんだよという前向きなメッセージだったと信じたい。
さようなら、全てのエヴァンゲリオン。
さよならは「また会うためのおまじない」ですよね?
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