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【オレ様化する子どもたち(諏訪哲二)】うえこーの書評#82

 最近(といってもこの本が刊行されたのは2005年だが)子どもの様子が変容していきているらしい。「校内暴力」を起こしたり、教師に歯向かったり、まさに自分にとって不都合なことがあればそれに徹底的に抗おうとする「オレ様化」された子どもたちが出現するようになった。筆者の感覚では80年代の子どもからそのような傾向が見られるとのことだが、そうすると私の親世代も含まれることになりより驚きが増す。

 筆者は議論をわかりやすくするために、戦後を三つに分けた。

 教育を考えるうえで戦後を三つのスパン(区切り)に分けることを思いつき、この半世紀で子どもが「農業社会的」な子どもから「産業社会的」な子どもへと移行し、そして「消費社会的」な子どもになったという仮説を立ててみた。戦後の日本はもちろん立派な近代であったが、共同体的な精神風土と人間関係を強く抱え込んでいた「農業社会的」レベルと、共同体的なものからほぼ離脱した「産業社会的」レベルと、共同体的なものがほぼ消滅しつつある「消費社会的」レベルに分けたのである。(p.36)

 「オレ様化」する子どもの出現は「消費社会的」段階に見られる。

肝心なことは「消費社会的」段階に入り、それを持つ一人ひとりが自分ひとりだけの「価値」だと思っていないことである。つまり、自分の思っていること、自分の判断していることはほかのみんなにも通用するはずだとみんなが思うようになった。(p.51)

 共同体より「個」が大事であるという考えを小さいころから教育されてきた子どもたちはまず、自分の欲求を通すことを最重要事項とする。

 また、以下の文章も教育専門家や評論家ではなく教師だからこそ書ける言葉だ。

子ども(ひと)に対する肯定性ばかりがあって、否定性のひとかけらも見受けられない。こういう話は怪しく、かつ、危ない。あまりにも美しすぎる物語は疑ったほうがいい。だって、好奇心を持つ子どもたちがどういうふうに育てられ、どういう情報を持ち、どう思考を組み立て、いったい何によって動かされているかという問いや疑いや迷いはいっさいないではないか。それに、ひとというものは好奇心を持つまえに「私は誰か(何か)」という根源的な問いを持ってしまう唯一の動物なのではなかろうか。もちろん、自分の好奇心を通じても「私とは何か」という問いは進行するが、そういう「自己への問い」は「私とは何か」の形を取りながら、実は「私たち(人間)とは何か」という問いを含んでいるのである。こういうひとのありようの根源性への配慮を欠いて、好奇心(自分のやりたいこと)だけで人間的自立を語るのは充分ではない。(p.187)

 直接子どもと向き合ってきたからこそ子どもに幻想を見ず、現実的に子どもを捉えている。

もともと学校でのやり方は子どもを監獄に入れるような感じで好ましく思っていなかった。いまでも、その気持ちは変わらないが、全くの無管理よりはましだと思うようになった。

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