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【計算する生命(森田真生)】うえこーの書評#93

 人間の計算の歴史を紐解くことで、人間の思考、意識の問題に挑み、そして生命へ至るこれまでの過程がまとめられている。

 もともと数というのは家畜の数を数えたり、商売人が計算手段として用いられることがほとんどだった。しかし、デカルトの時代になると数学がより踏み込んだ世界に進んでいく。

 デカルトの数学は、彼の遠大な哲学的企図のほんの一部に過ぎなかったのが、その数学が、結果として数学の風景全体をがらりと変えた。数学は、作図と言葉の縛りから自由になって、記号と規則の世界に解き放たれた。
 明示的な規則に支配された数式の計算は、意味解釈が確定しないままでも遂行できる。古典的な幾何学が、定規とコンパスで描ける図の「意味」に縛られていたとすれば、デカルト以後の数学は、記号と規則の力を借りて、意味がまだない方へと、さらに自由に羽ばたいていくことになるのだ。(p.32)

 その後も数学はより抽象的、概念的なものへと発展し難解になっていく。

 高校時代までは数学が得意だったのに、大学に入るとこうした直観に訴えかけない定義のオンパレードになり、にわかに数学嫌いになる人もいる。高校までの数学は大部分が十八世紀以前の内容のため、数式と計算が中心である。ところが、大学以後は概念と論理が前面に出てくるため、結果として、わかりきっていたはずのことをわざわざ難しく言い直されているような印象になり、戸惑う人が続出するのだ。
 だが、現代数学のこうした定義は、数学を難しく、退屈にするためのものではない。定義に直観的な要素を混入させないことで、かつてない精度と厳密さで概念を扱えるようになるのだ。(p.78)

 フレーゲ以後の時代になると計算という過程から意識、思考そのもを考えるようになった。

チューリングによって定式化された計算の概念からは、人間がほぼ完全に捨象されている。意識や身体を持つ人間がそこにいなくとも、明示された規則に統制された記号操作は、それ自体が計算であるというのがチューリングの考えだった。
 ところが、ウィトゲンシュタインはこの点で、チューリングとは異なる見解だった。彼は、チューリング機械は少しも計算していないと主張するのだ。

 チューリングの<機械>。これらの機械は、実は計算する人間にほかならない。

 このように語るウィトゲンシュタインにとって、計算機は、そろばんや紙や鉛筆が計算していないのと同じように、せいぜい計算する人間を補助する道具でしかない。計算していることとと、計算しているように見えることは違う。明示された規則に合致した記号操作だけでは、計算と呼べないというのだ。(p.167)

 意味を理解せずに計算することは、「計算している」と言わないというのは私も同意する。そして、このことがどれだけ人工知能が発展しようとも数学者にはなれないと私が考える理由でもある。

 この本は最終的に生命まで話を展開する。

 ブルックスが指摘した通り、全身の感覚器官を用いていつでも現実世界にアクセスできる主体にとって、外界の忠実なモデルを内面に構築する必要はない。世界のことは、世界それ自身が正確に覚えていてくれるのだ。とすれば、認知主体の仕事は、外界の精密な表象をこしらえることではなく、むしろ、環境と絶えず相互作用しながら、さしあたりの知覚データを手がかりに、的確な行為を迅速に生成していくことにこそある。生命にとって、世界を描写すること以上に大切なのは、世界に参加することなのである。(p.176)

 人間の意識、思考を考えると最終的に感覚器官をもった「身体性」にいきつくところに生命の奥深さを感じる。

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