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何のために「学ぶ」のか(桐光学園+ちくまプリマー新書編集部・編)【書評#159】

「中学生向けの大学講義」というコンセプトのもと、数名の専門家の論稿がまとめられている。

知ること、考えること(外山滋比古)

外山さんは他の著作でも一貫して、知識を詰めこみすぎることは問題であると書いて、上手に忘れることを推奨している。

 詰め込んでいけば、頭の中はいずれ知識でいっぱいになるが、それは、良いこと、素晴らしいことだとみなされる。だが本当にそうだろうか? 自分の頭の中が、他人が考えた知識、本に書いてある知識で満杯になることが、そんなにいいことだろうか? トンデモないことでむしろ逆だ。そんな知識だけの頭では身動きが取れなくなってしまう。いわば、知識メタボリック症候群。知識のぜい肉で太ってしまうと、軽やかで柔軟な思考など到底望めなくなる。 p.16

 もちろん知識は必要である。何も知らなければただの無為で終わってしまう。ただ、知識は多ければ多いほどいいと喜ぶのがいけない。良い知識を適量、しっかり頭の中に入れて、それを基にしながら自分の頭でひとが考えないことを考える力を身につける。 p.24

自然忘却作用は本当に大事にしなければならない。夜よく眠れない人は、大至急、眠れるようにしないと頭が悪くなってしまう。昼、詰め込むよりも、夜、不要なものをすてる方が大事である。心身の健康のためにも忘却作用を大切にしたい。 p.27

外山さんの言い分は確かにわかる。自分でものを考えることは重要だ。しかし、人類はこれまでの歴史で大量の試行錯誤を繰り返し、自分の知見や技術を深めてきた。その中でたいていの問題は誰かが考えているはずだから、自分で考える前にひとまず、知識を調べまくったほうが上手くいくような気がする。

脳の上手な使い方(茂木健一郎)

自分で自分に適度な負荷を与えると脳は成長する。以下の本を簡潔にしたような内容。

https://note.com/uekoo1998/n/n850d3bca3a48

生物学を学ぶ意味(本川達雄)

生物学のようなお金にならない「虚学」を勉強する意味。そして、著者の生物学から見た人間観が書かれている。

私たちの生活を便利にするためでもなく、たくさん食べ物をつくるためでもない。(...)このような学問を「虚学」という。 虚しい学問なんてひどい呼び方だが、なぜこんな生き物が存在するのかを研究したりして、世のさまざまな物事について知ることは、すなわち自分の世界を広げることになる。これによって脳みそが快感を覚えるのだ。 p.133

職業を選ぶ際は「好きなことをする」ではなく「世の中で大切なことをする」と考えたほうがよい。特別に好きでなないけれど嫌いではない。これだったら私は結構やれるし、それなりに社会の役に立っているなあ、と思えるものを見つけていくことが、現実的な職業選びだと私は考える。 p.135

 何をどうしたって私たちはやっぱり死ぬ。死ぬと虚しいから、どこかに永遠がないと心が落ち着かない。人間とはそういうものだ。だから天国の永遠を考えて宗教を生み出した。けれども生命そのものが「この世の永遠」なのだ。子ども、そして孫というかたちでこの世に、永遠に私が生き残っていく。これが生物。生物学はこういう見方を提供してくれる。だから生物学を勉強すると永遠が得られる。心が落ち着くのだ。 p.146

https://note.com/uekoo1998/n/n4d29fe883f1d

「賢くある」ということ(鷲田清一)

 近代社会は、全員が責任を持った「一」である市民社会をつくろうとしていたはずなのに、結局私たちは「市民」ではなく「顧客」になってしまった。市民とは、自分たちの大事な問題は自分で判断し自ら担う主体を意味する。私たちは、自分たちの安心と安全のためにプロを育て、「委託」するというという道を開拓してきた。しかしその制度の中で暮らすうちに、自分が持つ技や能力を磨くことを忘れてしまった。自分で物事を決めて担うことができる市民ではなくなり、ただのサービスの顧客に成り下がったのだ。 p.190

現在の全員が「顧客」となった現代の社会において賢くあるにはどうすればいいかが書かれている。


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