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オルガノイドの泪

試験管の中の涙腺から泪が溢れる。そんな動画が公開された。正確には、涙腺と同じような(すなわち泪と同じような液体を分泌する)機能を持つ細胞の塊を、培養皿の中に造ることができた、ということだ。

我々の身体は、もともとは1個の受精卵と呼ばれる"細胞"が、何度も分裂して数を増やしながらときどき形や性質を変え、その変わったもの同士がくっついたり離れたりして「適材適所」を見つけながら形作られる。最終的な成体は、約200種類の性質の異なる細胞が、総計30兆個以上集まってできているといわれている。我々の身体を覆う皮膚や毛髪もすべて幾種類かの特殊な細胞とそれらが分泌する物質でつなぎとめられてできたものであり、脳や肝臓など、見た目も身体の中での役割も全く異なる組織・臓器も、やはりそれぞれに特殊化した細胞が、精妙な三次元構造を保って集まったものである。

こうした器官の形態や機能を、生体外で模倣できるように設計された細胞の塊を「オルガノイド」という。ざっくり言えば、人工臓器のタネになるようなものだ。これを作るのには、実際に生体から採取した少量の細胞を培養して増やしたり、京都大学・山中伸弥教授のiPS細胞(どんな種類の細胞にも"変身"できる細胞)をいじって、目的とする器官を構成する細胞を準備するといった方法がある。

ただしそういう「パーツ」となる細胞を集めただけでは、目的どおりに集まって器官を形成するまでには至らない。ちょっとした足場を与えたり、物理的(力を加えたり緩めたり)・化学的(細胞同士がコミュニケーションをとるための情報物質の受け渡しなどの)刺激を、絶妙のタイミングで与えてやらなければならない。そう、器官形成にも"ゆりかご"が必要なのだ。

涙腺も例外ではない。もともと眼球上部の眼窩(眼球を包む頭蓋骨の空洞部分)の裏にあるので、まず採取するのがとても難しい。そして涙腺様に再構築するためにこれまでは丸一日かかっていた。今回、オランダ・ユトレヒト大学病院のハンス・クリーバーズらは、マウスやヒトから採取した細胞からほんの30分ほどで涙腺様のオルガノイドを構築することに成功した(トップ画像の環状構造体。青く染まっているのはオルガノイドを構成する細胞の中の核で、これを見るとオルガノイドが実際に複数の細胞が集まってできていることが分かる。緑色は細胞を包む細胞膜を染めたもの)。

ただしこのオルガノイドにはまだ”管”がないので、実際には泪を”流す”ことができない。オルガノイド中の細胞内で「泪がたまる(= 細胞が膨れる)」様子が観察されただけだ(トップ画像で赤く染まっているのが、細胞の中に溜まった”泪”;参考リンク先の記事の下の方には、白黒画像で細胞が膨れる動画あり)。しかし、この中途半端なオルガノイドでも、マウスに移植してやると管状の構造を再構築し、その中に涙に含まれるのと同じタンパク質が含まれていることが確認できたそうだ。

さてこれが何の役に立つのか。まず人体が発生する過程(上で述べた受精卵から成体に至る過程)で涙腺がどのように形成されるのかを研究するのに強力なツールになる。いろいろな薬の開発にも役立つだろう。涙や唾液が分泌できず目が乾いてしまう難病シェーグレン症候群の治療法の開発にもつながるはずだ。ちょっと変化球でワニの細胞のオルガノイドを作って、ワニが塩分を排出するのに涙を使う仕組みを解き明かすという応用もある。

もちろんオルガノイド研究の究極の目標は「移植による代替器官の提供」だ。これについては同グループによる唾液腺の研究が先行しており、今夏から臨床試験が予定されている。この臨床研究は将来の涙腺移植の布石となるだろう。こうした未来への明るいきざしもさることながら、今回作製された涙腺オルガノイドが意外に"雑多な”細胞で構成されていたことから、過去の研究データの見直しも迫られているとのことで、涙腺研究者の泪もいろいろな意味で止まらないことになっていそうだ。


<参考リンク>

(本記事は、上記リンク先の内容を、筆者独自の感想を交えながらかみ砕いて解説したものです)

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