クリスマス

成分表②今からクリスマスを作ることは、誰にもできない。

クリスマスシーズンになると、街に電飾がほどこされ、東京で言えば表参道や六本木ミッドタウンのそれを、人がわざわざ見にいく。

それを見て「わあっ」と声をあげる心は、万人に分け持たれているものだ。

今からクリスマスを作ることは、誰にもできない。

クリスマスは、何世代にもわたる人々が、集合的に寄ってたかって夢を見て、今のかたちに作った。ピラミッドもそうだし、野球も、映画も、俳句も漫画もそうだ。

それらのものを生んだ集合的な心は、人間の初期設定であり、何万年かを経て、現代人にたとえばクリスマスを祝わせる。

それは、人が人に生まれたことを自祝する、人間存在の花なのだ。

だからだろう。個々の文明は、人々の子供心が見た夢によって、記憶される。エジプト文明といえばピラミッド、西洋文明といえばクリスマス。それらの文明が生んだ偉大なものには、灌漑技術とか人文思想とか、いろいろあるにもかかわらず、そうなのだ。

四つ年下の弟が、小学五年生くらいの時だったか、いきなり「今年はクリスマスをちゃんとやろう」と言い出したことがあった。

うちはクリスマスに熱心な家では全くなかったのだけれど、彼がそう言うならと、ひさしぶりにモールや豆電球を飾り、こたつでレコードを聴いたりケーキを食べたりした。

そして、独特にさびしい気持ちになった。そのさびしさには、なにか大事なことが含まれているような味わいがあり、こうして今でも憶えている。

詩人・西脇順三郎は、詩は「人間に与えられた唯一の装飾である」(「人生派からデコル派まで」)と書いた。

詩人は別の場所で「詩の作品は詩ではない」とも書いている。つまり、クリスマスや野球こそ詩であり、人間の唯一の装飾なのだ。

クリスマスやお正月を必要とする私たちは、そういった子供心あるいは原始的心性を、「深さ」としてつながる、共同的存在である。

メリークリスマス、そして謹賀新年。


[画像はChristmas Comes but Once a Year (1936) (old cartoons public domain)より]


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