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回想録 六、教員生活のまとめとして 子どもや学校で感じたこと

回想録 六、教師としての生活 その5からの続き

七、子どもや学校で感じた事

1、小児喘息
北小、源池小、立科小で、幼保へ行っていた頃から半分以上学校を休んだ子ども。共通しているのは親が教育熱心で、いろいろ子どもたちに要求をしている家庭の子だった。前の園から、運動やいろいろな事をさせないようにした。という連絡があった。
幸か不幸か、すっかりその事を忘れ、子どもの好きなように運動したり泳がせたりしたら、皆、咳をしなくなり、ほとんど休まなくなった。
群馬大学医学部で、水泳の効果について発表があり、「小児喘息によい」という結果がでた。
当時は先生か銀行員の子に多いと言われていた。
三人の親からは感謝された。

2、おねしょの子
気がついたのだが、三人兄弟の真ん中の子が2年生になっても「おねしょ」をする。と家庭訪問の時に親に言われた。
女・女・男の三人兄弟の家に行った時、男の子が保育園から帰ってきて、母親の膝に乗り甘えている時、二番目の女の子は座布団にくるまっている。遠くから見るように母と弟にはしていた。親から言われた三人の中の子だと感じた。
一番上と下は大事にされ可愛がられていたが、真ん中の子はあまりかまってもらえなかった事への親への訴えかなと思った。

学級PTAの時にそんな話をして、両親や祖父母の誰かに頼んで真ん中の子に愛情たっぷりにしてもらうように言っておいた。

3、不登校児への対応

イ、兄や姉が登校を渋る子

・月曜日になると休む子がいた。1人は兄で、(弟は自分でいろいろな事ができる子)月曜日になると休むようになった。それで近くにいる同じクラスの子が給食のパンを持って行っていた。
その子に頼んで「休んでいると、来年も1年生だよ」って伝えるように言った。次の日から教頭さんが「毎日学校で一番早く来ている」と教えてくれた。
そその話を職員室で先生方に聞かれたので話したら「へぇそんなこともあるんだ」と驚いていた。

・姉が不登校で、月曜日に休むのが多くなった子、家庭的に問題のある子だった。
金曜日の帰りに呼び止めて、机の中に置いてあったチョコレートを箱ごとくれて「月曜日も来るように」と言ったら来るようになった。

ロ、その他の子(担任していた子)
急に休むと連絡があった女の子、とても優しくて友達の面倒も見てくれた子で学校での気疲れだと思ったので、「一日ゆっくり休むように」電話で言ったら、次の日より登校できた。

ハ、担任以外の子
3年生くらいで、登校せず、担任が朝、家まで迎えに行って連れてきていた子

・男の子三人は単にの話を聞いて、それぞれ得意なものを自分の目で見たりして、スケート、野球が好きで、学級の中でもうまい。それで、こちらから話しかけ、褒めた。その後昼休みや清掃の時間に竹笛、水鉄砲、紙鉄砲、竹の弓矢、竹とんぼと続けて一日ごとに変えて遊んでやったら、終わりの頃「先生、迎えに来なくていい」と言って登校するようになった。

・男の子で3年生、母子2人の家で、休職して子どもと校庭へ来て遊んでいた。
夏休みの時、その親子に行って、子どもと近くの田んぼの用水で、ザリガニやドジョウをとり、教室の水槽に入れたり、水鉄砲で遊んでやった。夏休みが終わると登校をするようになった。その後いとこの子が転入してきて、最初は喜んできていたが、クラス替えで別々のクラスになったら、また登校を渋るようになった。
それで、校長や担任に言って、前と同じように従弟と同じクラスにした。そしたら来るようになった。
ベテランの先生ほど他の先生方には言わない。
若い先生は困っている事は話すようだ。

他に、水泳が嫌で登校を渋り、お母さんに連れてきてもらう子も担任に頼まれ、強引に教室にいれ、水泳の時間に基本になる「けのび」(蹴伸び)や呼吸法を教えて少し出来たのを褒めたら、次の日から来るようになった。
その子の祖父より二年間ビールが届いた。

・学級担任が手を焼いている子たち

主に高学年の男の子、出歩いたり、授業の妨害をしたり、大きな声を出したりする子達は1対1で接すれば、言いう事を聞くようになった。

集団の中に誰でもよいから自分を認めてくれる人が居ればよいのだ。

・同和教育とのかかわり

子どもの頃、地区のある道を通るのが何となく怖かったが青年団と交流をしたり家の隣に田んぼを作っていた人とも話したりしている中で普通に見るようになった。

・「地区の人は人を見る目が鋭い」
立科小で家庭訪問の時、母親に言われた。
「前の先生は、私が出した物を私が台所へ立った隙に紙に包んでかばんの中に入れた。また中年の男性は冬ストーブにあたっている時「お前たちは他と違うからあたるな」と言われた。と。

学校の教師を差別者と考えていた。その後、県の同和教育推進で各自治体を回って「同和にどう取り組んでいるか」を視察して歩く運動があり、立科町へも来た。
その時の隊長が内山の人で知っていたので、難しいことは言わなかった。
以後、地区の人と飲んだり話したり、田中小・南小でも、会の後は飲んだ。

田中小の時、担任の子がいて学級会長などもしていた父親は町の差別に関する会での宴会で自分のお酌が無いと酒を飲まない人で、役場の人に不思議がられた。家にも係の先生と二人を呼んでくれた。
飲んだ時、歌うのがうまい。父親たちがうまい。

学校を通して、どの子どもの親ともゆったりと接することができたのは、幼い時からの諸経験の賜物だと思う。
本や、話からは知識しか得られないが、人との接し方は知識からではない。経験からだ。

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回想録 七、退職後へ

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