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練馬区の馬頭観音たち 馬頭観音のある道①

練馬区の由来


東京都の北西部に位置する練馬区は、急行に乗ると15分足らずで池袋駅に到着する便利な街だ。隣接地区はそれぞれの町文化に固有の特色を持つ中野区杉並区豊島区板橋区武蔵野市、などで、自転車やバスで気軽に足を伸ばし、東京近郊の魅力を探訪することができる。

そんな練馬区の名前の由来はいくつかある。
一つに、馬を訓練するところがあり、馬を馴らす事を練るというので、練馬になったというものだ。(語源由来辞典より)

関東平野独特の広々した原野が広がっていただろう地に、たくさんの馬が繋がれ、闊歩していた時代を偲びながら、馬頭観音を尋ねる散歩に出た。

馬頭観音とは何か

正式な名称は「馬頭観世音菩薩」等であり、日本の民俗信仰神を纏めた『宿なし百神』(川口謙二著・東京美術選書12)によると、馬頭観音は「魔障を除き、慈悲を垂れ給う菩薩である」とし、その容貌はインド神話に出てくるベードウ王が、司馬双神からバーイドウという神馬を賜り、その力を借りて悪蛇を退治した。その時の奮闘の姿を表現して、馬頭冠の憤怒形、または馬頭人身像ができたと言われる」とある。※このブログでは馬頭観音と統一して表記する。

馬頭観音は時に憤怒の表情をした仁王のようであり、剣を持って阿修羅のように手を広げているものもある。私の家の近くにあるような、小さな石に文字を刻んだだけの寂しいものもある。今までいくつか馬頭観音を撮影して来たが、その形状は様々であり、建立の際のはっきりとした彫り方の決まりはないように思える。

同じく『宿なし百神』では民間信仰の形として馬頭観音について以下のように説明している。

「かつては人間生活の主要な部分を占めていた馬は一馬力、二馬力という力の単位ともなり、農家では馬の所有を貧富の物差しともしていた。また武士も槍一筋は百石の侍、馬一頭は二百石の侍とされた。特に農民は、馬にも生活をゆだねる場合が多く、馬はほとんど家族の一員としてあつかわれ、死んだ馬に対しては供養塔を建てた。そして路傍には馬頭観音を祀って馬の安全と成育を祈ったのである。」

これが街角、道の脇に小さく建てられた馬頭観音の謂れであろう。家族のように扱われ、時に一緒に旅をした馬たちは死んで家族の墓には入れないが、あの世での供養のための石塔、供養塔が建てられ、馬頭観音と呼ばれ、家族が祈りを捧げ、街なかの道端に昔の生活の名残としてひっそり佇んでいる。大抵は季節の仏花が飾られ、誰かが水や酒類をお供えしてささやかな供養が営まれている。

「蒼前神」

他に『宿なし百神』で「蒼前神」という馬の保護神の話が出てくる。主に東北地方で多く信仰され、博労衆の馬の売買や民家で仔馬が生まれる時、必ず「蒼前神」にお神酒をお供えするのだという。馬の売買や生死が深く庶民の生活の中に存在し、馬を守る神を信心して来た歴史がある。

東北地方では今でも馬もちの人だけで講を作り、「蒼前講」と呼んで集会を持つとある。この「蒼前神」の石碑が茨城県加波山山頂にあり、「蒼前神」は石にも刻んで祈られていたことが窺える。

長く戦乱の世がなかった江戸時代の、文化水準が高かったことが窺えるのが石仏や供養塔であると私は考える。

もちろん、飢饉や疫病を乗り越えた記念碑などはその範疇には当たらないが、馬頭観音や道祖神、そして庚申塔などは安全で暮らしやすかった江戸庶民の祈りの姿、風俗の姿を今に伝え、愛情豊かな人々の思いを今に残した座標のように見える。

道祖神は石工の失業対策?


ただし、『宿なし百神』の「道祖神」の頁には、「石像道祖神」は江戸中期以降、世の中が落ち着き一通り大名の城が完成し失業した石工が村々を周り、思い思いの構想で彫像したものとも考えられる」とあるので、案外職業事情なども絡んでいるのかもしれない。

とまれ、神社仏閣などで素晴らしい石像や道祖神、狛犬など見ると、贅沢の選択肢が少なかった時代に、庶民が「自分たちのご褒美」を永遠に形にできると信じて完成を祝った喜びを感じて穏やかな気持ちになる。多くの人に道祖神、庚申塔、馬頭観音を見て癒されて欲しいと思い、その保存がいつまでも続く事を私は願ってやまない。

練馬区富士見台 側面には年号が刻まれており、天明六 丙牛 五月 と読める。誰かの愛馬がここで亡くなったのだろうか。
練馬区桜台 かなり摩滅した三面に馬が載っており、耳の形がはっきりとわかる。
もしかしたら馬の瞳も彫られていたのかもしれない。
練馬区貫井 目白通りの脇道。水と仏花の添え物が
色々書いてあるのですが、私にはほとんど読めず。年号は天保十五年、四月だろうか。

    珍しい僧侶の形をした馬頭観音

練馬区本寿院の境内にある「僧形馬頭観音」練馬区の登録有形民俗文化財に指定されている。
残念なことに頭が破損している。頭の上に飾りの彫りがあったのかもしれない。
施工主の名前『三河屋安次郎』反対側には「駄善孩子」(だぜんがいし)文政六年(1823年)とある。死んだ馬があの世で立派な僧侶になって功徳を積んでほしいという願いなのか、愛らしくデフォルメされた馬像の姿に、施工主の愛馬への愛情をひしひしと感じて、しばらくこの像の前から動けなかった。
三河屋安次郎もこの境内のどこかに眠っているのだろうか。

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