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モナカの自己評価は高すぎる

近所のスーパーで買い物していた。「小物アイス特売」と書かれたコーナーに、ピノなどが大量に放り込まれていた。ようするに箱型のアイスと区別して百円弱のものを「小物アイス」と言っているんだろうが、「小物」という言葉は自然と「大物・小物」のニュアンスを引き連れてきた。

ピノを見ながら、たしかにこれは小物だと思った。「ピノ」という響きからして小物感は漂っている。ここ一番の大仕事はピノには任せられない。しかしそれはいい。ピノは別に大物ぶろうとしていないし、小物としての自分に安住しているように見える。そこに愛らしさもある。

むしろ私が批判したいのは、同じコーナーにいたジャンボモナカだった。ジャンボモナカがどれだけジャンボと粋がったところで、小物アイスのコーナーでピノのとなりに放り込まれている事実は動かせない。小物たちのなかでジャンボと言い張るモナカの悲哀よ。

さらに問題なのは、モナ王も入っていることだった。小物扱いされる王に未来はあるのか。ジャンボと言い張るモナカ、王と言い張るモナカ、もしかしてモナカというのは、どいつもこいつも自己評価が高いものなのか。

ジャンボモナカは罪深い。しかしモナ王の狂気と比べれば、ジャンボと言い張ることすらかわいらしく感じられる。ジャンボモナカはモナカの思春期だ。自分を大きく見せたがる。その気持ちがダダ漏れになっている。俺はすごいと自分で言ってしまうのだ。大人の女ならば、ジャンボモナカのひとつやふたつ、コロッと手玉にとることができるだろう。「ほんとに大きいわねえ」と言っておけば嬉しそうにするんだから、かわいいものだ。

しかし、モナ王となるとそうはいかない。これは狂気のレベルがちがう。女たちはしっかりと危険を察知して、モナ王とは一切関わらないだろう。このあたりの女の嗅覚は、やはりたいしたものだ。

「俺、ジャンボだぜ!」

「我は王なり……」

この二つの発言のあいだには越えられない溝がある。ジャンボモナカのような男はよくいる。しかし、モナ王のような男は日常にはいない。後者はすでに社会生活が困難になるレベルの狂気を内包しているからだ。

私がモナ王を狂人だと言うのは、この王国には土地もなければ国民もいないからだ。本来、王は関係性のなかにしか存在できない。王が王であるためには王国が必要だ。それなしに王の称号に飛びつく人間がいるならば、それは狂気の世界に陥った人間だ。モナ王のような存在は昔の精神病院にたくさんいた。ナポレオンを自称する男が同じ病室に二人いたなんて笑い話も聞いたことがある。

「我はナポレオンなり」
「我はナポレオンなり」

互いに自己紹介する。これが狂気である。「我もナポレオンなり」とならないところが狂気の真骨頂だ。二人目の自称ナポレオンも平気で「我は」なのである。相手の言葉が耳に入っていないのだ。

アイスケースに視線をもどそう。モナ王のとなりにモナ王が置かれている。それどころではない。10、20のモナ王が詰め込まれている。我はモナ王なり。我はモナ王なり。我はモナ王なり。我はモナ王なり。我はモナ王なり……。自己紹介が延々と続く。モナ王たちは自分のすぐ隣にも王がいることに何の疑問も抱いていない。

あのケースは、頭のおかしくなったモナカたちが収容された空間ではないのか。

思春期は誰もが通る道だ。ジャンボと粋がるモナカたちは、やがて現実という壁にぶつかるだろう。見渡せば、右にも左にもジャンボと言い張るモナカたちがいる。そして、自分はとくにジャンボではないという現実に気づくのだ。迷いと葛藤の中で、自称ジャンボモナカたちは、自分の身の丈を探しはじめるだろう。多くのモナカは等身大の自分を受け入れるだろう。そして一部のモナカは、長い鍛錬の果てに素質を開花させ、ほんとうのジャンボになるかもしれない。自称することをやめた名前を、今度は社会の側から与えられるのだ。

だが、どちらにもなれないモナカたちは妄想の世界に入りこむ。「私は絶対にジャンボなのだ」という妄想にすがりつく。そのまま時が過ぎれば、モナ王のできあがりだ。一般に狂気は熱をはらむ。頭を冷やすという表現もある。しかし、モナ王は零度以下の世界で狂気を持続させている。これはもう、どうしようもない。霜の降りた空間で、ピノのすぐ隣で、「王」としての生涯をまっとうしてもらうしかないだろう。

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初出:2016年〜2018年

真顔日記の通常回をまとめたもの

めしを食うか本を買います