耳と音

 傾聴。そうすべきだった。主張をされた時には自分の主張をせず、それを全面的に受け入れるべきだ。どうせ解決などしない非建設的な"愚痴"だ。そこに自分の気持ちを出すことになんの意味があるというのか。十数分前の自分は大変に愚かだったと言わざるを得ない。嫌なことがあると昔のことが思い返されるのが常だ。ロマンチストは後ろを向き、リアリストは前を向く。私は前者だ

 "大人びている" "垢抜けている" たまに会う大人たちは私をこう評することもあった。偶然にも"装い"の出来ない私に出会った時、大人たちは違和感をそういった言葉で表現していた。私は昔から他人の"主張"という奴をすんなり受け入れるのがとても苦手だった。当然だ。自分自身の主張すら受け入れられないのだから。頭の中には否定の言葉が渦を巻き、"違うかもしれない" "おかしいのかもしれない"という妄想に取り憑かれている。だから私は自分の主張でさえ検証していたし、思案の日々は大人たちの腐敗した常識をとうに凌駕していた。自負があったわけだ。だが私が主張を展開すればクソったれな大人たちはこぞって"子どもが" "世間知らずが"と掌を返す。私の主張を負かすことが出来なかったからだ。負け犬の遠吠えを子守唄に育ったがある日 突然に、馬鹿を真正面から相手にすることにウンザリし私は主張をしなくなった。幼い日のことだ。それでも、向こうが展開する前時代的な主義や主張はどれもが手垢だらけで汚らしく、目の前に突き出されると黙っていることは出来なかった。今も出来ない

 我ながら子どもだなと思う。クールなキャラクターを気取っちゃいないが、主張なんてものは普段の生活において大した意味を成さない。何かを成したいならくだらないことを言っている間にゴミ同然の紙切れ一枚書いた方が世間様の受けはいいものだ。知っている。そんなことは知っているんだ。だけど心は納得しない。自分の中の子どもの部分が大声で喚き立てる。"あんな主張が許されていいわけがない!" "誰かが正さなければ変わらない!"感情の堤防はすぐに決壊し牙を剥く。そんなことを何度も何度も繰り返して。仕事の失敗も社会生活での失敗も家族との関係性の失敗も。その多くの原因がこれだ。抑制したいのに出来ない。いや。出来ることには出来る。ただ、聴かなければいい

 塾に通っていた頃の話だ。もちろん望んで通っていたわけではない。父は私を"優秀"だと思い込みたかったのだろう。父の思惑はさておき、私も当初は真面目に取り組んでいた。与えられた課題に熱心に。なんの足しにもならない最初の級は入塾後すぐに取れた。それどころか予定になかったその上の級も急遽 受験し受かった。嬉しかった。半年後の私は見る影もなかった。画に書いた不良生徒だ。ひたすら喋って、騒いで。他の子の邪魔だったろう。父には先生から苦情がいった。私がそうなった原因は、音だ。ざわざわする中でも人の喋り声を聞き分けることができ、理解できた。コソコソ話していても聴こえたのだから、土台 耳が良かったのだ。私は音のせいで、全く集中できなくなった。音はとにかく付き纏ってきて私に迫ってくる。だから私は、音を能動的に遮断する術を考えた。耳栓では抜けてくるからダメだ。感覚を、遮断するんだ。聴覚を遮断すると集中力が格段に高まったが、周りへの注意は皆無になり、道路から田んぼへ落ちたり、車に轢かれかかったりとリスクが増大した。その上、思考している時には独り言を言うらしく…もっとも、それも聴こえないのだが。ただでさえ変人だったのに、拍車がかかった。それでも。私には平穏が訪れた

 兎にも角にも、私は音を聴かないようにある程度コントロール出来るのだが当然、相手が何を言っていたのか全く理解できなくなる。平時ならば人の声色や震えや速さの変化などから細かい情報まで拾って返す私だ。聴いていないのは明らか。で、相手は怒る。それもまた当然だと理解できるが、相手は私のことなど理解してくれない。普段は私の半分も聴いていない他人という生き物がよく言うぜと思うが、それに怒るのも疲れたし飽きた。

 世界は。生き辛い。とても、生き辛い。ちょっと人と違うってくらいじゃなんの役にも立たないのに、ちょっと人と違うってだけでその苦悩は計り知れない。損だ。普通でないということは。今日も、これが私の生きた証だ。なんの実りも もたらさない私の、数少ない足跡を言葉にした。さよなら

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