親ガチャ

 親ガチャ。そんな言葉があるそうだ。親や家庭は選べないということを比喩的に表現しているらしい。私は世間から離れているからネットやメディアの反応くらいしか分からないのだが、一部界隈で盛り上がりを見せているとのことだ。貧富の格差を筆頭に、頭の良さや運動神経、容姿など自力ではどうにもならない(と思う)要素を当人のせいにされても困ると主張しているそうだ。親が悪い、と言いたいのだろうか

 私の親はアルコール依存症だ。診断を受け、治療をし、今は断酒を継続し落ち着きを取り戻している。だが、依存症だという事実は変わらない。生涯、付き合わなければならない事実だ。親がアルコール依存症でなければ。そう思ったことは何度もある。最初は酒好きの延長線で、ストレスが重なった日に飲み過ぎて潰れているような感じだった。数年のうちに症状は悪化した。なぜ周りの家族はちゃんとケアをしてあげなかったのか。理解を示して寄り添っていれば。だが私も、その傍観者の一人で何も変えなかった。私は諦めと待ちを選んだ

 親が悪い。そう言う奴は同じ主張を繰り返し、変化をもたらす努力をしない。環境を変えない人間でも子を成し次の不幸を産む。生まれた子どもは同じことを主張し、自らの環境を変えようとしない。繰り返しだ。状況は悪化していく。論破で有名な何某さんは、"親ガチャに否定的なのは恵まれた人間の驕りだ"とした。そうかもしれない。だけどその扇情的な文句は誰を救うのだろうか。クソみたいな親っているよね~ハズレだよね~で済めばそれこそ幸せだろうが、当事者は今も地獄を見ている。何某さんは有識者アピールをしたかったのだろうか。有識者は腹を膨らませてくれるのか。実利がないのなら、私も何某も世間も。何も変わらないのではないかと思う

 状況は、なんとかして変える他に手はない。課題はなんなのか。解決方法はなんなのか。いつだって誰だって考えるべきことは変わらない。自らに終止符を打つのも、苦痛から逃れる手段としては一つの候補になるのかもしれない。私は。他人に私の命を握られるのが嫌で。腹が立って。だから今も生きている。アルコール依存症家庭を抜け出したサバイバーだから。生きることが社会への復讐だ

 置かれている状況が不運だと嘆くことは問題ではない。むしろ声高に叫べばいいと思う。敵や厄介事が増えることもあるが、誰かが気付いて助けてくれるかもしれない。SOSを出しながら、いつも自力でどうにか出来る目を考える。他人を踏み台にしても。這いずってでも。生きていく。頭の出来を嘆く前に、使えるツールをフル活用して勉強しているのか。容姿をカバーする手段はたくさんある。運動神経なんていうものは経験値の差で遺伝は全く関係ないという。幸福も不幸も、数え出したらキリがないと思う。私は年齢不相応の持病を持っているし、人格もまともじゃない。普通に生まれたかったさ。これがもしハンデだというなら。ハンデを、周りの連中にくれてやってるんだ。それでちょんちょんなんだろ、他人は。満ちる怒りが私の導だ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?