【全てを考え直す】#論理ロンリー

これは全てを考え直すための備忘録である

基本

認識を考える

人間はある対象をありのまま認識できない。
すべてその人による解釈を経て認識される。例えば視覚情報、ですらその人の持っている特有の神経や脳で変換、解釈され認識されるのである。
つまり「ある対象」と「ある対象だと認識しているもの」は全く別物である。

解釈を考える

解釈とはその人の持っている既知の知識や事象への変換のことを指す。
リンゴを認識した時、初めてリンゴを見れば見れば「丸い」「赤い」「果実」などに変換し認識するだろう。
リンゴという存在を知っていればそのまま「リンゴ」 、農家であれば品種で認識するもしれない。
つまり人それぞれで解釈は異なり、厳密に言えば認識したものも異なることがわかる。

論理を考える

ここでの論理とはA→B、のように、ある前提を根拠に立脚した理論の繋がりとする。
この時、前提Aの前提となる理論をCとする。またCの前提となる理論Dを考える。これを繰り返していくと、際限なく理論が紡ぎだされるが、前提や根拠のない前提があることに気づかされる。
それこそ正しさを証明できない理であり、信仰や信条にあたるものだろう。

妥当性を考える

全ての論理は突き詰めれば、それぞれ正しさを証明できない前提に立脚することがわかる。
つまり全ての論理は正しいとはいえないということなる。ならば全てが間違いか。それは異なると考える。
妥当と考える前提で、妥当な論理展開していれば、論理も妥当だと考えるのが自然だろう。つまり正しいかどうかではなく、妥当かどうかが重要なのだ。

共通認識を考える

複数の人が同じように認識していると考えるものを指す。
ただ認識で触れたように必ずしもその認識が同じとは限らない。

コミュニティを考える

コミュニティとはある共通認識を持つ複数の人間のことである。
一人の人間はそれぞれ様々なコミュニティに属していると言える。

事象を考える

事象とは認識する対象のこととする。
人間は事象を解釈によって認識する。人はありのままを認識することはできず、事象を分解、変換しながら認識する。また事象は、時間的、空間的に同一の存在はなく、人により解釈が異なることから、ある人が同じとする事象も別のある人にとっては同じと限らない。

人間を考える

人間は身体で外界と隔てられ、事象を身体で解釈し認識し、思考などを通し、その論理の結果を身体で表現するもの(不動を含む)と考える。
笑うといった感情も「楽しいから笑う」など論理立っているものだし、食べるという行為も解釈のひとつだ。
そして空間的、時間的に同じ人間は存在し得ないと考えるから 感情、解釈、認識、思考、表現。全て人それぞれ同じでないことになる。

他者を考える

他者とは自分以外で人間だと考える事象のことだ。
その人は他者は人間として同様だと考える。
だが、他者の内面や感情を直接認識することはできない。直接認識できても解釈を挟む。しかし感情は必ず(不動を含む)表現に繋がる。つまり表現、行動から他者の感情を推察することができる。同様に思考、解釈もである。だが、どれも解釈を挟むためそれぞれが同じとは限らない。

快・不快を考える

快とはその人間にとって好感情を抱くことや、またその事象のこと、または利益ともいう。人は全て快を求めると考える。
不快とはその人間にとって悪感情を抱くことや、その事象のこと、または不利益ともいう。人は全て不快を回避しようとする。

価値基準を考える

人間の快・不快の判断の基準であり、ある一人の一つの事象に関しても多種多様の基準が存在し、それぞれで判断される。
どれが重視されるかはその時々で異なる。

共感を考える

ある者と他者で感情が同じであると認識することである。共感を得るのに前提と論理展開を共有する場合も多い。

制限を考える

これは感情、認識、思考、行動などの限界のこと。
人間には身体があることからそれらは必ず制限があると考える。

自由を考える

自由とは制限されないこととする。
コミュニティにおいては必ずある者の自由は他者の自由を侵害する。
空間的、時間的位置が同じ人間が存在し得ないことからそう考える。

無意識を考える

ある事象について認識するとき、逐一解釈の論理を検証することは時間的に不可能であり、そのことは感覚的に理解できるだろう。
だが、認識は正しいことと確信している。つまり必ず何事にも論理の省略、論理の飛躍が存在する。
それこそ前提が正しいと盲信するのも含め無意識である。
必ずしも省略や飛躍の論理が妥当とは限らない。

コミュニケーションを考える

コミュニケーションとはある人が他者に対して(直接の相手とは限らない)ある行動(不動も含む)や感情を期待して取る行動(不動も含む)であり、その繰り返しである

身体を考える

最も妥当性の高い前提とは身体である。
これは人間は皆身体を持つからである。議論の際共通認識を持てない相手には最終的に身体を共通認識にすべきと考える。
空間や時間が存在するという前提も妥当性が高いと考える。
外界の事象において最も身体に近い事象だからだ。

加害・被害を考える

本質的に全ての表現はなにかを害する。表現すれば(不動であっても)外界の酸素が消費されるようにだ。
同時に我々は常時被害を受けているとも言える。表現すれば体内のカロリーを消費するようにだ。

表現を考える

表現とは身体による行動・言動とする。
意識下・無意識下問わず全ての表現(不動を含む)が外界の事象を解釈、思考しての結果的な反応である。これは身体内の事象でも表現は起こる。

宗教、信仰を考える

人の思考や身体、感情は論理立っている。痛いから泣く、泣くから涙が出るなど。
論理立っている以上、突き詰めればその論理に証明できない前提が存在する。 だがその論理が正しいと考えるからこそ、人は確信をもって行動できるが、具に突き詰めていては時間的にも実際においても実生活を送ることはできない。つまり何かを無意識に信じていることになる
それこそ無意識に信じること、信仰、信条であり、宗教であろう。つまり人は誰しも宗教を持つのだ。

議論を考える

ある人と一人以上の他者によって行われる 表現された言動から他方の思考を推察し、共通認識を形成することを目標とする。(より発展的な案を出すことも時に目的となる)目標のためには共通と思われる前提と論理展開が必要である。それらの妥当性は問わない。またそのためには現実的に互いに尊重することが不可欠だ。

責任を考える

責任とは、ある表現により引き起こされる事象のことである。
責任感とは、責任に対し自意識を持つことである。

応用

科学を考える

科学を絶対視する人は多い。科学は論理により成り立つ。全ての論理は必ずしも正しいとはいえない。つまり科学は必ずしも正しいとはいえない。ロボトミー手術など現在では否定された科学があるのがその証左だ。ただ科学は最も妥当だと考える人の多い論理であるといえる。

現実と創作を考える

現実とは外界の事象で認識した時点で人それぞれで解釈された「事象だと考えるもの」となる。つまり人それぞれで現実は異なる。また創作を他者が作った事象とすると、これも結果的に解釈を経た「事象だと考えるもの」ということになる。つまり現実と創作に境目はないことがわかる。
しかしどちらがより現実かは妥当性で判断されると考える。
明らかな創作(漫画)などで、痛いから泣くという行動は多くの人は現実だと考えるだろう。ならば 「かめはめ波」は現実か。ならば「アダルトビデオで行われていること」は現実であろうか。

宗教とコミュニティの価値基準を考える

宗教とはある個人もしくはコミュニティにおける共通認識の明文化と考える。 宗教の力がより強い(価値基準がより明確より具体的)だとある事象に対しての価値判断に思考や議論がより少なくなる。逆に宗教の力が弱ければ価値判断の思考や議論は多くなる。

強い宗教のコミュニティを考える

イスラム教など宗教が明確で具体的なコミュニティでは価値判断、ひいては意思決定が効率的である。極論、宗教=価値基準となる。だが個人において制限は多く、自由は少ない。コミュニティの価値基準に反発する者も多くなる。また他コミュニティとの差異も大きくなる。

弱い宗教のコミュニティを考える

日本など、宗教が曖昧で抽象的なコミュニティでは価値判断の議論は時間がかかる。ある特定の恣意的判断に価値判断を委ねた方が効率的であり、ある意味コミュニティ内に宗教の強いコミュニティをつくる傾向にある。一見個人は制限は少なく自由は多い。宗教の自覚は乏しい。

日本の宗教観を考える

日本は宗教の弱いコミュニティと考える。コミュニティ内に強い宗教(カルト宗教)を生む素養がある。効率的であるため、ある特定個人(お上など)の恣意的な価値判断に割と従順で、責任感に乏しい。それでいて宗教の自覚に乏しい。他宗教が論理的ではないと優位性を抱く者も多い。

無知の知を考える

人は思考するとき、必ず盲信している前提がある。
その盲信の真偽は問わないし、証明できないものかもしれない。その盲信に気づくことこそ、無知の知ではないのか。

法律を考える

国における、形式的な明文化された共通認識。実際問題、選挙、官僚、国会と様々な解釈を減るため、国民の思考とされるものがどこまで反映されているが不明であるが、より妥当な共通認識と捉える人は多い。
法律を判断の基準とするいう考えもある。国が支持する共通認識であり、一見客観的であり、より妥当だと考える。しかし判断するのは、その人であり結局は主観である。つまりより妥当な共通認識や価値基準が示されればそれが優先されるべきである。

神、真理を考える

神や真理とは証明不要で絶対的に正しいものとする。
全ての表現をする思考において時間的にも逐一全ての論理を検証することは不可能であり、必ず論理の省略や飛躍など無意識が存在する。
また、全ての表現(不動を含む)をするには自身を正しいと認識せねばならない。
つまり人間は常に自身を正しいと認識しており、この時真理は存在するから、真理は人間に常に内在するものと考えられるのである。

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