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「プロメア」が私に残したしこりのようなもの。プロメア感想の少し長い文章。

「プロメア」を観ました。円盤も注文しました。よってネタバレに配慮がありません。

 「プロメア」とは映像が革新的であり、めまぐるしく動く色彩とキャラクターが魅力的な素晴らしい作品です。私はこの作品に日本アニメの未来を見ました。しかしどうにも、ストーリーと結末にしこりが残っているような気がしないでもない。それはプロメアのように、私のなかで広がっていき、熱となったのです。そして「どこかにこの想いを吐き出したい」という感情が、この記事を書く契機となりました。

 その前に、この記事が誰によって書かれたかをはっきりさせる必要があります。この記事の著者は絵と3DCGが趣味の飽きっぽい――しがない契約社員の凡人にすぎません。そして私は現代の医療では完治しない病に罹患しており、更にその持病は社会から差別されているものです。もしナチス政権が現代に存在していれば、私は彼らのT4(ティーフィア)作戦により、間違いなく殺されていたでしょう。

 本の収集癖がありつつも、幼少から飽きっぽい性分で、本も最後まで読めた試しがないのですが、いろいろと引用しながら「プロメア」についての考えを述べていこうかと思います。もし間違っている箇所があればご指摘いただければ幸いです。

「マッドバーニッシュ」という集団がテロを起こすことから、バーニッシュは被差別者ではなく、反社会的集団だという意見も散見されます。そこで私は「マッドバーニッシュ」ではない、あのピザ屋のように一般社会に溶け込んだバーニッシュに焦点をあて、考えてみようと思います。

プロメポリスのアイヒマン

 まずナチスドイツに関する文献から「プロメア」をみていきましょう。ハンナ・アーレント著「エルサレムのアイヒマン」とは、ナチスドイツの小役人であったアイヒマンをイスラエルが捕らえ裁判にかけた事件を、様々な方面からアーレントが考察する本です。

 興味深いのは、事件におけるアイヒマンの陳述です。彼はホロコーストに対し、自身の犯した罪についてこう述べています。

”「ユダヤ人殺害には私は全然関係しなかった。私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ一人も殺していない――そもそも人間というものを殺したことがないのだ。私はユダヤ人もしくは非ユダヤ人の殺害を命じたことはない。全然そんなことはしなかったのだ」(中略)「たまたま……私はそんなことをしなければならぬ立場だったのです」”

 ナチス政権の一役人に過ぎなかったアイヒマンは、同調圧力と思考停止の末に、ユダヤ人殺戮の幇助を行いました。悪とは凡庸で、思考停止によって起きるものです。バーニッシュへのジェノサイドを幇助したという点では、アイナの姉エリスとも立場が似ています。アイナの姉エリスは、クレイの計画を瓦解させたので、罪に問われることはないでしょう。しかし彼女が裏切りを決断したのが、命を消耗されていく無辜のバーニッシュのためというよりも、妹のためであったという点が何よりも残念なところです。これは尺が足りないと言わざるをえません。

 最も古代においてジェノサイドは一般的なものであったし、「行政的殺戮」は歴史上において何度でも行われてきました。ナチスドイツの行った「行政的殺戮」さえも普遍的なものにすぎません。問題はそれを、歴史上初めての事象であると認識することであります。私が言いたいのは「ホロコースト」を「ナチスドイツ」だけの問題だと切り離すことにより、主権者である大衆が関与してきたという事実を放棄し、「ナチスドイツ」だけに責任転移していることへの恐ろしさです。

 ナチスは民主主義から生まれました。主権者は思考停止の末、ユダヤ人を、精神病者を、知的障害者を、同性愛者たち諸々を殺戮することに合意しました。

思考なきプロメポリス

 一方「プロメア」の世界では、バーニッシュが弾圧される存在として、法も制定されており、彼らは虐げられたマイノリティとして念入りに描写されています。ピザ屋の場面がその例です。「プロメア」は冒頭部分の短い映像のなかで、いかにしてバーニッシュが被差別者あるいは反社会的集団という烙印を押されたのかがわかります。この映像が大変わかりやすく見事です。

 全体主義的統治はヒトを脱人間化し、行政装置の歯車とすることから始まります。ナチス政権下においては「法を遵守する市民」の義務として「行政的殺戮」が課せられました。この世界では、もはや「普通」が逆転しています。そして重要なのは大衆がこれについて、思考することがないのです。こうして全体主義は完成されるのです。

「プロメア」の「みんな同じ人間なんだ」という考え方は、集団主義に通じるものがあります。同じ人間など一人としていません。「みんなちがってみんないい」って言葉もありましたからね。プロメポリスの政治について、あまり深く描写されていないのが残念ですが、私は「プロメア」の根幹である「みんな同じ人間なんだ」という考え方に、現代日本の負のエッセンスが詰まっているとしか思えないのです。

 ガロやアイナ達は、「法を遵守する市民」側のキャラクターです。彼らはバーニッシュを擁護するかと思えばそうではなく、一部の「マッドバーニッシュ」が作り上げた反社会的肖像を元に、バーニッシュを差別をする側なのです。それは洞窟内におけるガロの「バーニッシュも飯を食うのか」という台詞からも読み取ることができます。リオたちとの交流を経て、徐々にそれはなくなっていきます。たぶん。

”ヤンキー”化するアニメ

 話は変わりますが、皆さんは斎藤環氏の著書「世界が土曜の夜の夢なら」をご存じでしょうか。

 巻末の論考には少しついていけないところがありますが、全体的には日本社会の特徴に深く切り込んだ、まことに興味深い文献であると私は考えています。

 氏はこの著書のなかで、丸山眞男の「古層論」を引用し、日本文化の二重構造を述べています。その二重構造とは、きわめて保守的な「深層」と、きわめて流動的な「表層」で成り立ちます。わかりやすく説明すると、「表層」である好奇心旺盛で外来の文化を取りいれる影響のされやすさ、文化の中核である「深層」に保守的なアイデンティティ(自己同一性)が存在すると言うことです。

 そしてペリー来航においてそれは顕著になります。氏は著書のなかでこの事件を”アメリカによる日本のレイプ”とし、以後の日本文化に多大な影響を与えたとしています。

 その影響とは”ヤンキー化”することではないかと私は解釈しています。アメリカを憎む一方、憧憬し尊敬の対象にするという矛盾。説明すると長くなるので、この続きは氏の著書を読んでみてください。

「プロメア」は和洋折衷の世界観にあり、主人公ガロの生き方は”ヤンキー”そのものです。言い換えれば行動主義的ともとれます。しかし彼は、クレイに裏切られるまで、集団内の秩序に従順で疑問を抱くことがありませんでした。バーニッシュであるリオに、迷惑にならないよう(炎を)我慢できないのかと言うガロの台詞は、ガロ自身がプロメポリスの秩序に従順な存在であることを表わし、個人主義が欠如していることをも表わします。

 一見”ヤンキー”で反社会的に見えるガロですが、実際は集団主義と集団内の秩序に従順な大衆のひとりなのです。それが日本独自の”ヤンキー”像を体現していると私は考えます。

 では日本独自の”ヤンキー”像とはなんでしょうか。一度氏の著書に戻ってみましょう。基本的には”ヤンキー”は体当たり主義であり、愛と信頼で他者との関係性が成り立ちます。ドラマ「金八先生」における金八もまた日本的”ヤンキー”の姿を描いているとし、次に海外の教師ドラマ映画と比較しています。最初に愛と信頼で生徒との関係が成り立つまでは一緒でありますが、ここからは氏の著書から引用します。

”……しかし重要な違いは、生徒の向上を促すものが、単なる教師との信頼関係のみならず、「詩」や「音楽」、あるいは「演劇」といった知的営為なのだ、という主張がされている点だ。その背景にあるのは、自由で自立した個人であるためには、何らかの知的スキルの向上が不可欠であるという信念ないし常識である。おそらくこれこそが、わが国における「熱血教師もの」に欠けている視点ではないか。……”

 日本独自の”ヤンキー”は「反知性主義」的でもあるのです。ここで注意するのは、「反知性主義」に知性がないというイメージは誤りであるということです。「反・知性主義」であって「反・知性」ではありません。

 日本独自の”ヤンキー”は何らかの集団に帰属しています。それは「ダチ」や「仲間」でもあり、「家族」でもあります。そしてその集団の秩序を大切にします。しかしそれは一種の呪いにもなり得ます。

 その呪いが所謂「機能不全家族」ではないでしょうか。

”ヤンキー”都市プロメポリス、母校に帰る

 あのラストを歴史で例えるなら、「ユダヤは単なる感染症だから、ユダヤ人そのものも無くなって、差別自体も無くなったよ! めでたしめでたし。あとホロコーストの首謀者達は裁かれないよ!」でしょうか。これの何が問題かというと、差別解消の手段として、差別されうる要因を消し去ってしまった点です。要するに、マイノリティがマジョリティに同化したということです。みんなおなじでいいじゃない、とそんな風に。

 もっと”ヤンキー”的にわかりやすく言えば「仲間」あるいは「家族」になるということです。この一点に日本の家族・集団主義が凝縮されています。この映画では”家族”が描写されていないから爽快だとする感想も見られましたが、「仲間」も”家族”と同義であると私は考えます。「仲間」になるんならいいじゃんと言う人もいるかもしれませんが、ここでの「仲間」は個をすり潰した、集団主義の代物であるので、「仲間(家族)なんだから(我慢して)受け入れろ」とかその手の台詞がお好みであれば、お好きなだけどうぞ。

 私個人の考え方ですが、差別そのものが無くなることはないと思っています。しかし、このラストはあまりにも残酷です。マジョリティとマイノリティ間における問題提起をしておきながら、その問題の解決を劇中で放棄しているのです。これはかつてイギリスがインドに行った所業や日本が戦中に行ってきた同化政策を彷彿とさせるものでもあります。結果的に「プロメア」の世界で、マジョリティとマイノリティが共存することはありませんでした。私にとってはこの事実がとてつもなく悲しい上にしんどいのです。まあ翌日には普通に働くけどな!

 何故バーニッシュのアイデンティティと誇りを奪う必要があったのかは、製作側の都合もあるかもしれません。あの終わり方なら尺に収まるとか、そういった都合もあるかもしれません。私はそういう方向で自分を納得させました。何度も言いますが、「プロメア」はビジュアル、キャラクターともに素晴らしい作品であります。

 最後に私が考えたさいきょうのプロメアを引用します。私のエゴですが、本当はこれが観たかった。そしてヒーローチームとなったリオたちが、バーニッシュを差別してきた人々をも救う展開も欲しかった。

稚拙ながら、ここまで読んでくださりありがとうございます。感謝!

……書き足りないのでまた足そうかと思っています。

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