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『検脳鏡』(クルト・ラスヴィッツ作、1900年)

まずはじめに
このたびの地震で被災されたみなさまに
心からお見舞い申し上げます

はじめまして、の方もいらっしゃると思います。
ドイツ語や英語のグラフィックノベルやSF小説の翻訳などをしている
鵜田良江と申します。

きょう、2024年1月10日は、翻訳を担当しました
宇宙英雄ローダン・シリーズ704巻『サトラングの隠者』の発売日です。
このシリーズは、月に2回、
ドイツ語版の原書をそれぞれに2巻ずつ収載する形で
翻訳出版が進められています。
704巻にはドイツ語版の1407巻と1408巻が入っています。
ドイツ語版は60年以上、日本語版は50年以上も続いている
スペースオペラのシリーズです。

そして、このたびの地震のために
もしかしたら、いつもの書店でいつものように
704巻を買うことができない方がいらっしゃるのではないかと
心配しています。
なにかわたしにできることはないかと考えて
翻訳しかできないけれど、翻訳ならできるし
ローダン・シリーズがお好きな方なら
ドイツ語のSFを楽しんでいただけるかもしれないと思って
パブリックドメインの原書が手元にあった
クルト・ラスヴィッツの短編を訳して
ここに公開することにしました。

クルト・ラスヴィッツ(Kurd Laßwitz, 1848-1910)は
ドイツの作家で
物理学者、哲学者、著述家、教師…とさまざまな顔を持っていました。
たくさんの作品を残していますが
短編の中では
『検脳鏡( Gehirnspiegel)』(1900年)
『シャボン玉の上で(Auf der Seifenblase)』(1887年)
『アラジンの魔法のランプ(Aladins Wunderlampe)』(1888年)
あたりが代表作だと思います。

クルト・ラスヴィッツの文章というのは
全体に明るいものをたたえていて
ドイツ語SFの祖と呼ばれるのも納得のエンタメ作家だと思います。
その代表作はいまもドイツ語圏で新刊が出て読み継がれています。

そして上の短編の代表作3つ、いつか訳をしたいと準備をしていました。
今回は『検脳鏡』の翻訳を公開いたします。
124年前のドイツで書かれた作品です。
ほんのひととき、楽しんでいただけましたら幸いです。


検脳鏡


「ああ、きてくれたんだね!」わたしが部屋に足を踏み入れると、友人のアルヴェトがそう言って迎えてくれた。「もうこないかと思っていたよ。それならぼくの手紙に気がついたんだね?」
「ついさっき、劇場から家に帰ったときにね。終演が遅くなって--」
「いや申し訳ない。そのうえぼくの家に呼びだしたりして。でも重大なことを、本当に重大なことを伝えなければならなかったんだ」
「やめてくれよ、知ってるだろう。きみやきみの細君と話すのは本当に楽しみなんだ。そのためならいつだって時間はあるさ! いい話だといいんだがね?」
 アルヴェトは奇妙な顔をした。じらすつもりなのか、まずはわたしをじっと見つめる。それから困ったようにわたしのうしろに目をそらすと言った。
「きょうのうちにどうしても話しておきたくてね。きみは知るべきだ。とにかくこっちに座って--なにか食べるかい? もういらないかな?」
 細君はどうしたのかと、わたしはたずねた。ところがアルヴェトはわざと聞き流したような気がした。答えもせずに虚空を見つめて大声を出す。
「すばらしいんだ! とにかくすばらしいんだよ!」
 わたしは座り慣れたソファーのすみに腰を落とした。アルヴェトは頬髭を引っぱりながら、いつものように神経質に歩きまわっている。すっかり興奮して目を輝かせていた。やがてわたしの正面で立ち止まると、両手をポケットに入れて口を開いた。
「どう思うかい? 検脳鏡だよ! とにかくすごいんだ! そう思わないか?」
「検脳鏡だって?」わたしは訊きかえした。「知らないな。検眼鏡なら、50年前にヘルムホルツが発明して新時代を拓いたやつだ。まさかきみが検脳鏡を発明したとでもいうのかい?」
「もちろんぼくじゃないよ。名前を考えただけさ。でもこの名前も的外れかもしれない--まったく違うものだからね。名前については今晩ずっと考えていたんだ。いや、とにかくすばらしいんだよ」
「それで、どんなものなんだい?」
「パウジウスおじさんの発明だよ」
「パウジウスさんの?」わたしは思わず大きな声を出した。「それならぜひとも聞かせてもらいたいな。とにかくすばらしいはずだ。だが使わせてもらうわけにはいかないんだろう。きみのおじさんは残念ながら、発明を公表したことなんてほとんどないんだから」
「それが今回は、公表すると、はっきりと約束してくれたんだよ」
「本当に?」
 わたしも勢いよく立ちあがった。すっかり期待に胸をふくらませていた。パウジウスさんは天才なのだ。あの風変わりな老学者とその実験室のことはよく知っているし、研究の話もいくつか聞いたことがあった。実際にきわめて重要な発明をしている。それなのにごく親しい友人にしぶしぶ打ち明ける程度なのだ。人間は自分の発明にふさわしいほど成熟していない、そう主張していて、人間は不要だと思っているらしい。わたしはアルヴェトの肩をつかんでゆすぶった。
「さあ、話してくれ!」
「ああ、もちろんだよ。さあそこに座って。なにもかも話すから。それできょうの夕方、ぼくは妻を連れてパウジウスおじさんの家に行ってみようと思ったんだ。帽子とステッキを用意して、あとは妻を待つばかりだった。ところが少し時間がかかって、それからもう少し時間がかかった。やがて妻が困ったようすでほほえみながら、ドアのほうに顔を出してきたんだ。
『先に行っていてちょうだい。すぐに追いつくから』
『どうしたんだい、なにがあった?』
『鍵をどこかに置き忘れただけなの。でもこのまま出ていくなんて、いやだから』
 まあ、それはよくあることだったから、ぼくは先に出かけたんだ。パウジウスおじさんの家の前で待って、それからノックをした。
『どなたかな?』
『アルヴェトです』
『そうか、お入り。だが気をつけてくれたまえ』
 おじさんが小声でそう言ったので、ぼくは部屋に入った。まっくらでね。ぼんやりと光るスクリーンがようやく見えてきたとき、そこに--いや驚いたよ--ぼくの姿が映っていたんだ。もちろん少しぼんやりしている。ぼくはあぜんとして立ちつくしていた。そのときおじさんの声がしたんだ。
『ふたりで一緒にきたのか? 細君の声は聞こえなかったが。いつもはそれほど静かではないだろう?』
 そのとき妻の絵が、スクリーンに映るぼくの横に現れた。
『うちのはあとからきますよ』とぼくは言った。『でも……』
 ぼくが話しているうちにパウジウスおじさんは部屋の明かりをつけた。スクリーンにはなにも見えなくなって、おじさんは奇妙なかごのようなものから慎重に頭をはなした。ゆっくりと立ちあがると両手をこすりあわせて、実験台の上の小瓶を指さしながら、にやりとして言ったんだ。
『そこに新しいものが、いいものがあるぞ。試してみるかね?』
 もちろんぼくは少し信用できないなという顔をした。
『安心して挑戦してみてくれたまえ』とおじさんはつづけた。『クラニオファンだ! いわば、頭が明るくなる』
 ぼくはおじさんに説明をしてほしいとたのんだ。
『そうさな』とおじさんは言った。『これは液体なのだ! 少量を血中に注射する。それが骨と接触すると即座に吸収される。奇妙なことだが、そうなのだよ。骨の物質全体に浸透するわけだ。水が吸い取り紙に吸われるようにな。とはいえ体にはなんの害もないし、骨にもそうだ。5分後に効果は完全に消失する。そこからなにが得られるのか、かね? いや、それがいいところなのだよ。というのもクラニオファンが骨に含まれているあいだは、光が骨を透過できるのでな。少なくともわたしが設計した電球の光線は透過できる。きわめて強力な光を使えば皮膚や肉の箇所も通るだろう。これがあれば、骨にさえ光を通すことができるのだ』
『本当ですか?』ぼくはすっかり興奮して、『それは医学にとって、ものすごく有意義なことではありませんか!』
 おじさんは得意げに笑った。
『まあ、あれだ』と、話をつづける。『とにかく有意義であろう、それは昔からわかっていた。ところがあの日、まったく新しいことを発見したのだ。脳のなかをあの光線で照らした』
『そうでしょうね。頭蓋骨は骨からできているんですから、その光は通るでしょう。おじさんの発明の偉大な成果ですよ』
『はっ! 脳細胞の内部をのぞけるなど、きわめてささいなことだ。むろんすばらしいとも。だがこれは生理学だけの問題ではないのだよ。その裏にはさらに注目すべきものが隠れている!』
『わかりません。ほかに、なにをするつもりなんでしょう』
『そうだろうとも。おのずと理解できるようなことではない。いいかね! わたしは脳細胞を見るだけではなく、あのスクリーンにきみの思考を映しだせる。いわば、きみがこの瞬間に考えていることを--そうとも、その撮影さえもが可能なのだ』
『できるわけありませんよ、おじさん! 一杯食わせようとしているんでしょう』
『本当だとも! 見せてやろう。ただし、すべての思考ではない。視覚的なものだけだ。つまり、目に見えるものだな。きみが姿形として、空間のなかの絵として思い浮かべるものだ。ここに入ってきたとき、あのスクリーンになにが見えたかね?』
『ぼく自身です』
『それから?』
『ぼくの妻』
『細君はここにいたかね? いなかったな。それがどうして見えた? まさにわたしが自分の脳の視覚中枢に光線を透過させ、まずはきみを、それからきみたちふたりを思い浮かべたからだ。そうしてきみたちの絵が現れた。どうやってこれを説明する? そうとも、わたしの頭には理論もある。聞きたまえ! いや、まずはひとつ簡単な実験をしてみせよう。こちらにきてもらいたい』
 ぼくは断らなかった。おじさんはぼくに注射をして、頭に装置をはめた。もちろん外からは見えないけれど、すごく明るい光を発生させる電球の先端がうしろから、髪の毛のあいだからぼくの頭に触れた。光線の焦点が脳の視覚中枢にくるように調整されていてね。額から出る光の円錐がレンズを通り、特別な処理がほどこされたスクリーンに投影されるようになっていた。
『円を思い浮かべてみてくれたまえ』とパウジウスおじさんが言った。
 ぼくは言われた通りにした。スクリーンに円が現れる。赤、青、黄、と、考えるにつれて色が変わった。ところがそこに、ありったけの不鮮明な形が揺れながら混ざりこんできた。ただ円だけは、ぼくが円のイメージに集中しているかぎりは形をたもっていた。それから3の形を考えた。するとすぐにその絵がスクリーンに現れた。でもやがて、形が不明瞭になった。薬の作用が消えたんだ。それでぼくは装置から頭をはなした。
『どうかね?』パウジウスおじさんは小声で訊いた。
 ぼくはがっかりして座りこみ、おじさんに言った。
『これはほとんど意味がないような気がしますよ--あの形はぼくの脳のなかに存在するものではないでしょう。どうすればあれが投影できるんですか?』
『むろん脳のなかにはない』おじさんは笑って返事をした。『さらには、脳のなかを見ているわけでもない--そこに見えるのは細胞線維や血球ばかりだろう--そこからはなれて考えるべきだ。たとえば電話線に耳をすましてみても、なにも聞こえないな。装置を用意する必要がある。さて、われわれが円を見るとき、なにが起きているのだろうね? 特定の様式で秩序づけられた光線が外から到達すると、特定の神経細胞がその固有振動を中枢に伝える。この神経物質の振動状態の特定の形式が持続しているかぎり、われわれは円の感覚を保持することができる。では、この実験に話を戻すがね。円をひとつ頭に思い浮かべてみよう。いま中枢器官において、かつて円を目で見たさいに起きたものに等しい神経物質の変化が起きている。そのようにして変化した細胞の振動状態が、この電球の光芒によって照射されるわけだ。するとこの光芒の光の振動周期が変化し、同等の空間関係が光波に伝わりスクリーンに向かう。この光はある意味で電話の振動板なのだ。脳細胞と刺激する磁場。わたしはこの事象をこのように説明している』
 ぼくは考えこんで座っていた。
『ま、それはそれとして』とおじさんは言った。『ほら、きみの愛する細君もきた。それでいわば、きみはこれほど長いあいだなにをしていたのかね? 鍵は見つかったのかな?』
 ぼくの妻は悲しげに首を横に振った。
『どこに置いたのか、わからないのだね?』おじさんは機嫌よく言った『助けてあげるとも。さあ、ここに座ってくれたまえ。最後に鍵を置いた場所を見てみるとしよう。ひょっとしたら、あのスクリーンでわかるかもしれない』
『どういうことなんですか?』と妻がたずねた。
『ちょっとした読心術、それだけだよ。あらゆるものが入り乱れる頭のなかを、少々のぞいてみるわけだ』
 そこで簡単に、ぼくとおじさんでどういうことか説明した。はじめは妻はいやそうにしていたけれど、おじさんが手順を説明すると気になってきたみたいで--」
 アルヴェトは話をやめた。また髭を引っぱって部屋のなかを早足で歩きまわり、不安そうな目をしてわたしの前で立ち止まった。
「そう、いまなら」と、口を開く。「どう言えばいいのか--なにもかも話せるとも、コンラート……」
 理由はよくわからなかったが、アルヴェトがわたしに腹を立てているような気がした。そのうえ彼があまりにも奇妙な顔をしているので、わたしは居心地が悪くなってきた。まさかその実験でなにか--?
「白状するしかないけれど」とアルヴェトはつづけた。「ぼくは急に言いようのない不安に襲われたんだ。おじさんへの遠慮がなければ実験をやめさせたいぐらいだった。だって妻が心の奥底でなにを考えているのか、それをいま急に見せられるのだと思うと……妻はなにも心配していないようだった。それにぼくのほうにも疑う理由なんてなにひとつない。きみならわかるだろう--それでも! だから、若く美しい女性が……頭のなかになにを隠しているかなんて、だれにもわからないじゃないか。ぼくは本当にみじめな気分になって……」
 そう言うと、アルヴェトは興奮してまた歩きまわった。わたしもすっかり怖くなった。これ以上はなにも聞きたくないと思った。女性のかわいらしい頭のなかを見たりなど、だれにできるというのだろうか? もしできるとしても、丁重に断るべきだ。もちろんわたし自身は潔白だと感じていた。とはいえ、もしいまパウジウスさんの装置を頭につけたら--その瞬間、あの実に愛らしい、いたずらっぽい表情が目に浮かんだ。輝く茶色い瞳、こめかみの黒っぽい髪が見える。アルヴェトの細君の姿が目の前にはっきりと見えていたから、その姿は確実にスクリーンに映ったはずだ。わたしも友人と同じく不安になった。それでも、できるだけ冷静に言った。
「それで、なにが見えたんだい?」
 アルヴェトはわたしを長々と見た。やがて先をつづけた。
「だから、パウジウスおじさんが妻に言ったんだ。鍵を本当にはっきりと思い浮かべるように、ってね。日ごろから手に持っているのと同じように。すると本当に、やはりありったけの不鮮明な形がかすめていくスクリーンの上に、妻の思考力の作用を受けて、握った手とともに鍵が現れたんだ。そしてその横に--」
「その横に--さあ言ってくれ!」
「ある男の顔がはっきりと--」
「どんな男だ?」
「考えてもみてくれ、ぼくがどんな思いをしたか--いや考えられないか--ばかげたことが頭をよぎって--」
「だからどんな男なんだ?」
「きみなら当てられるんじゃないのか。ぼくは興奮に身を震わせて出ていくしかなかったんだ! 急いで立ちあがり、ドアまで走った。外に出てしまってから、妻の澄んだ声が聞こえてきたんだ。
『まあ、わかったわ! 壁の棚にあるコンラートの写真の裏に置いたのよ。写真の埃を払ったときに、あそこで手から放したんだわ』
 それでぼくは走って家に帰った」
 アルヴェトは先をつづけた。
「大した距離じゃないからね。階段をあがってこの部屋に入り、そしてあそこ--壁の棚に置かれたきみの写真をひったくると、本当にそこに鍵があったんだ! 3分後、ぼくは鍵を持ってパウジウスおじさんの家に戻っていた。なぜぼくがあんなに激しく抱きよせたのか、妻はちっともわかっていなかったよ」
 アルヴェトはテーブルのそばに座って煙草に手を伸ばした。わたしはなんと言えばいいのか、よくわからなかった。胸のつかえはおりたものの、いくばくかの当惑は隠せずにいた。
「それなら、パウジウスおじさんは得意満面だったのだろうね?」とわたしはたずねた。
「もちろんさ。ほくそえんでいたよ。でもぼくが発明の有用性をほめそやすと、おじさんは言ったんだ。
『いわば、まだなんの役にも立たんな。だが、少し訓練すればまったく違うことができる。それはひとえに、強力な絵画的想像力をそなえているかどうか、そしてみずからの造形的イメージに注意力を向けつづけられるだけの強い集中力を有しているかどうかにかかっている。わずかでも思考が逸脱すれば、映像は乱れてしまうからだ』
 こんどはパウジウスおじさんが自分で装置のそばに座り、いくつかの記憶を、そしていくつかの空想をお目にかけようと言った。
 するとスクリーンに色彩豊かな絵が現れた。そこにいる人物は生き生きと動いている。次に、劇で見た場面、自分で思いついた絵。いま考えていることも--」
 わたしはアルヴェトの手をとり、話をさえぎった。
「すごいじゃないか」と、わたしは大声を出した。「わかっているのかい、その発明にどれほどの意味があるか」
「もちろんさ--公表してはじめて華々しく明らかになるんだろうね。研究が進むよ。脳生理学、内面生活、心理学、医療全般……」
「なにを言ってるんだ! いまわたしが考えているのは学問のことじゃない。パウジウスさんが発明したのは芸術なんだ。つまり新たな芸術、きたるべき芸術--絶対絵画だ! わからないのか? 絵の具や筆はもはや余計なものだ。練習も熟練の技も必要ない。芸術家の想像力が見る者の驚嘆する視線の前に直接、天才の深遠なる内的体験を絵画的に出現させるんだ。科学技術が描画技術をめぐるあらゆる努力を凌駕し--魂が直接絵を描く! もはやラファエロに手は必要ない。芸術家は重い素材から解放される。理想はおのずと実生活にとりこまれ、むしろ人間が神々のもとへと高められ--人間の直観が創造力になるんだ!」
 わたしは感激して勢いよく立ちあがり、アルヴェトに迫った。
「それでいつ、パウジウスさんはいつ公表するんだ? 本当に公表するのか? 自分で文章を書くつもりなんだろうか」
「公表すると約束していたよ。もうすぐ、間もなくのはずだ。おじさんはくわしいことは妻に話していた。ぼくが出ていったときに」
「きみの細君はいったいどこにいるんだい? きょうはもう会わせてもらえないんだろうか」
「きょうはもう無理だね。いま12時の鐘が鳴っているから。でももちろん、少しは顔を出したがっていたよ。こんな大事件だから話さずにはいられないじゃないか。ほら聞こえるだろう--グラスを持ってきた!」
 わたしはアルヴェトの細君とさし向かいで立っていた。彼女が頬を赤らめて、トレイを置いてわたしに手を差しだしたとき、その顔にかすかな戸惑いが読みとれたような気がした。
 わたしはなんとか言葉をしぼりだした。
「いつ--検脳鏡はいつ公表されるんだい?」
 彼女は美しい目でわたしを優しく見つめ、思慮深く口を開いた。
「すばらしいことですよね? でも少し気味が悪くて。それであした--きっとあしたには原稿を送ると、おじさまはおっしゃられていました」
「あした!」わたしは叫んだ。「あしたは文化史が変わる日になるぞ!」
「あしただって? もうきょうだよ!」アルヴェトがグラスを満たしながら言った。「それでは新たな芸術に、検脳鏡に乾杯といこう!」
 グラスが合わさる音が響く。わたしはいつものように壁の日めくりカレンダーに向かい、過ぎ去った日の紙を破りとった。いまそこに現れたのは--4月1日。


おわりに

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
物理学者でもあり哲学者でもあった
クルト・ラスヴィッツらしい表現があちこちにあって
さいきん話題の生成AIに通じるところもありながら
責任の所在が明らかなぶん、ぜんぜん違うよなと思ったり、しました。

もし、身近なところに
ローダン・シリーズの長年のファンだけれども
スマホもパソコンも触らないような方がいらっしゃいましたら
こんなのあるよと伝えて、見せたりだとか
そのようなことをお願いできたら…
図々しいことではありますけれども
もしもそのようなことをしていただけたら
ほんとうにほんとうに、うれしいです。

このシリーズの翻訳者の中では短いあいだとはいえ
何年か翻訳をしてきた中で
読者のみなさまの応援は、とても心強く
わたしの中では、とても大きなものでした。

あるとき、みかん農家の方が
みかんの木の上に訳書を置いて撮ってくださった写真は
わたしにとっては宝物になっていて
あぁこんなふうに読んでいただけているのか、と思い
あれ以来、なにか大きなニュースがあると
あのなかにローダンの読者の方がいるかもしれないじゃないか!
と思ってしまうのです。
多少飛躍気味ではあり、大げさではあるのですが
親戚が全国にめっちゃたくさんいる、ような気持ちになっています。

ほんの少しでも恩返しができたら、と思って
今回、この作品を訳して公開することにしました。

『シャボン玉の上で』と『アラジンの魔法のランプ』も
それから、1902年にしてオンライン授業が描れた『遠隔教室』も
いつか訳せたらと思っているのですけれど、そのうち…です。

最後になりましたが
被災地のみなさまのもとに
一刻も早く支援が届き、日常が戻りますよう
心よりお祈り申し上げます。