人生における「挫折」とは何を意味しているのか?という話
今日の昼にとある知人と話をしていて、就活や転職などのキャリア形成における「挫折」とは何を意味するのか、という内容にふとなった。気になって調べたら以下だった(コトバンクより
ヤスパースの哲学における基本的概念で,人間がもはやその悟性や意志によって離脱することのできない限界状況,すなわち死,苦悩,闘争および責任などに直面する際に出現する宿命的な経験をいう。この挫折の経験において,むしろ現存在は一層深く開明され,同時に包越者にいたる道が暗号として現れる
、、、、。ご覧の通り、何を言っているのか分かりません。笑
よく就活などでも「これまで挫折経験はありますか?(≒今までで最も辛かった経験は?)」という質問があると思いますが、この「挫折」とは何を指すのかわりと曖昧だったりするなと。
僕が個人的に思うに挫折とは:高い成果を出すために自分がこれだと信じて貫いてきた考えや信念にある一定期間則って行動した結果、それを大いに下回るパフォーマンスを残し、その原因(その考えや信念)が自分が未熟すぎたが故に発生したものであると自分で認識し、精神的に堕落する機会のこと、だなと思います(もう一度言います、個人的にです)。
で、仮に僕の思う挫折がそうだとするなら、この「自分がこれだと信じて貫いてきた考えや信念」というのは常に懐疑的に見た方がいいなと思います。なぜならその成果の質に繋がるから。成果とは仕事のみならず、日々の行動すべてにおいての話です。もちろんプライベートもそう(人間関係、お金の使い方などなど)。
また念のためですが、そうした考えや信念に基づいて行動するな、という意味ではなく、その考えに対して「本当にそうなのか?」とまずは問え、という話です。これは前にTwitterでも書いた「思考の枠組み」にも繋がる話だと思います(勝手にTwitterの話出してごめんなさい)。人は自分の見えている視野の中で思考を完結する生き物です。
つまり自分が見えている視野の中で考えや信念を形成します。でも残念ながら人は「自己の経験」という強烈なバイアスが掛かっているので、どうにもこうにも「偏り」が生じます。これをいわゆる価値観と呼ぶのかもしれませんが、適切な成果を出すに当たって「本当にそうなのか?」と問えるかどうかはかなり大きな差だと。
後は問うた結果、頭ではそっちの方が良さげかもと分かっているけど、やっぱり自分としてはこっちを大事に生きていきたい!という場合があると思いますが、それはそれで自分が持つ素晴らしい価値観だと思いますので、貫いてもらうのが良いかと思います。その後のことは僕は知りません。自分の人生に責任を負えるのは自分しかいませんからね。
で、結局なにを言いたいねんという話ですが、その挫折を経て「未熟な自分」に気づくことがまずは大切なのかなと。それ自体が「思考の枠組み」を広げられていることだと思うので(だから面接官はよく「そこからどんなことを学んだの?」みたいな定番の質問をするわけで)。そしてその枠組みを広げられると次の機会にどう活かそうかと、あれこれワクワクしながら考える始めると思うんですが、その時の自分のパワーと言ったらとんでもなく最強状態だけど、そこで培った考えすらも早速懐疑的に疑うことから始めなきゃですよね。笑
まぁそのサイクルで人は成長していくわけで、もっと挫折して、もっと挫折したことに気づいて、自分の信念を疑いそして自分と戦いながら、常に「思考の枠組み」を広げていくことが大切なのかなと思います。
つまり挫折は、自分の人生がもっと楽しくワクワクさせてくれる自分の資産であって、その資産価値は自分次第で変わる(もしくはその価値に気づけていない人がいたら相手に優しく寄り添いながら気づきを提供できるような人間でいたい)。
、、、ということを家のトイレで座りながら考えておりました。
お蔭様でお尻がとても赤くなっています。
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