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里山から自治を考える 20「2025大阪・関西万博というしくみ」

1970大阪万博と2025大阪・関西万博

 まだ発展途上だったかもしれない、1970年の大阪にとって、その6年前の東京オリンピックと同様、70年大阪万博は、大きな起爆剤となりました。2023年、もう人口減少し、衰退期に入っている日本において、70年万博の幻想を現在に持ち込むのは、既に現状認識を誤った政策だと思います。
 70年万博は、大阪そのものを変えるイベントだったけれども、2025は、夢洲限定ですよね。しかも利権の塊のような夢洲です。こんなわかりやすい構図はないと思うのですが、今週のゴジラ-1.0で話したように、その部分を捉える視点がない。

支配層と被支配層の完成

 ゴジラ-1.0で感じた、政治的意図や状況を分析できない人々が増えているように、もう2025大阪・関西万博をやろうとしている支配層=維新がいて、被支配層としての大阪府民市民は、金(府税・市税)だけを払っている。支配層がどこかで勝手にやっていて、公民としての視点もない状況が、完成されていますよね。
 市民としては、デモしたり、署名したり、多くの反対運動をやってきたのですが、全く支配層=維新は、無反応だと思います。首長も、議会も、支配層に牛耳られているわけですから。それを選挙で選んだのも、府民・市民ですからね。
 結論としては、民主主義の手続きでいうと、維新を(国政では自民を)選挙で落選させるしかないわけです。

支配層の言い換えを破れ!

 維新を含む支配層側と、対立軸で市民側の意見を言っているだけでは、結局、是か非かしかなくなるわけで、支配層は、そういう二元論的な選択肢に追い込んだ時点で、数の論理で勝てると確信しているしくみを有しているんです。
 ですから、単に反対するというよりは、二元論に持ち込んできて、その言い換え自体を客観視するような、第3の視点=公民としての視点を、もう一つ持つべきではないかと提案します。

分断の象徴としての教育現場

 ある教師から伺ったのですが、「今の学校は、教育をしていない。漢字を教えているのではなく、漢字を指示していて、指示に従っていると、いい点がもらえるしくみを教えている」と。
 「その指示を聞く生徒と、指示に従わない不登校児に分断し、不登校児に対する、別のビジネスの枠組みが作られている」と。
 教育の現場でも、このような支配するしくみが、着実に進行していると感じています。

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