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矢野宏の平和学習 07「大阪空襲訴訟 なぜ提訴したのか」

民間の空襲被害者がなぜ、国に謝罪と補償を求めて裁判を起こしたのかについて、これまで紹介した。
戦時中、民間の空襲被害者を救済する法律「戦時災害保護法」があった。ところが、敗戦後、廃止された。1952年、サンフランシスコ講和条約が発効され、日本が主権を回復すると、旧軍人と軍属、その遺族を救済する法律「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が公布され、翌53年には「軍人恩給」も復活し、軍民格差は開くばかり。これまでに旧軍人・軍属には50兆円の年金や恩給を支給しているが、民間の空襲被害者に対する補償はゼロ。

民間の空襲被害者は何もしてこなかったわけではない。
名古屋大空襲で鼻の上や左目を失った杉山千佐子さん(2016年に101歳で死去)を中心に、民間の空襲被害者に対する補償を盛り込んだ新たな法律「戦時災害援護法」の制定を求め、1973年から89年までに計14回、国会に法案が提出されたが、そのつど廃案となり、それ以降は国会に提出すらされていない。
大阪では安野輝子さん、小見山重吉さん(2010年に79歳で死去)らが街頭に立ち、戦時災害援護法制定を求めて署名活動を行い、厚生労働省に提出したが、受け取りすら拒否された。
「もう署名とか、陳情とか、それまで通りの活動では私たちの声は国にはとどかない。もう裁判しかない」と、民間の空襲被害者223人が2008年12月に大阪地裁に提訴したのだ。


大阪空襲訴訟の集会で挨拶する安野輝子さん

戦後、民間の空襲被害者を放置してきた最大の根拠は、戦争で受けた損害は国民が等しく受けなければならないという「戦争損害受忍論」だ。原告らは「戦争損害受忍論を民間の空襲被害者だけに押し付けているのは、法の下の平等をうたった憲法14条に反している」と訴えた。
大阪空襲訴訟の口頭弁論は2009年3月から始まり、原告団代表世話人の安野さんが最初に陳述した。
安野さんは米軍機が投下した判雁の破片の直撃を受け、左足の膝から下を奪われた。当時6歳。奇跡的に一命を取り留めたが病院でガラス瓶の中に浮かぶ自分の左足を見ている。「トカゲのしっぽのように足はまたはえてくる」と思ったが、成長とともに辛い現実を知ることになる。
証言台に立った安野さんは、松葉づえと義足での生活を余儀なくされた戦後の生活を振り返り、「私の人生は生きることへの闘いと我慢とあきらめの繰り返しでした」と涙ながらに切り出した。
安野さんは16歳の時、母親にこう言って責めたという。
「どうして戦争に反対してくれなかったの。戦争さえなかったらこんなにつらい目に遭うこともなかったのに」と。母はこう答えたという。「坂道を転がり落ちるように、気がつくと戦争は始まっていたの。どうしようもなかったのよ」
その時は納得できなかったという安野さんだが、「裁判を起こして以来、その頃のことをよく思い出す」と語っていた。
「なぜ、立ち上がってくれなかったのという少女の叫びは、今、私たち自身に向けられているのだと思っています。私たち空襲被害者を放置してきた最大の根拠は、戦争で受けた損害を国民は等しく受忍しなければならないという『戦争損害受忍論』です。私たちがこのまま我慢とあきらめの人生を受け入れて死んでしまえば、同じ歴史がくりかえされることになります。内外の情勢が厳しい中、10年、20年後の子や孫たちの未来が気になります。だからこそ、戦時、戦後を生きてきた私たちが戦争損害受忍論を打ち破り、奪われてきた人権を取り戻し、真の民主主義を子や孫たちの世代に手渡したいのです。それがこの裁判を続けていける一番の原動力です」
安野さんは嗚咽をこらえて語り、最後にこう訴えた。
「差別なき戦後補償を求める闘いは、この国の、この世界の未来を築くことだと確信しています」

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