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矢野宏の平和学習 08「生まれて2時間後に空襲に遭った」

空襲による民間被害者を救済することなく戦後ずっと放置してきた国の責任を問うために提訴した「大阪空襲訴訟」。その裁判は6年に及んだ。
もう一人の原告団代表世話人、藤原まり子さんは現在78歳。
生まれたのは1945年3月13日。生まれて2時間後に最初の大阪大空襲に遭った。母親とともに布団ごと自宅の防空壕に避難させられたが、そこに1発の焼夷弾が落ちてきて防空壕内は火の海となった。たまたま通りかかった若者に助けられたが、生まれたばかりの藤原さんは左足に大やけどを負った。戻ってきた父親が生まれたばかりのまり子さんを抱いて病院に駆け込んだが、当時、薬などない。医師が赤チンをつけたら、藤原さんの左足の親指からポロポロ落ちたという。
左ひざの下が内側に向かってぐにゃりと曲がった。成長とともに左右の足の長さに差が出てきたため、左足に補装具をつけ、それを隠すために太めのズボンをはいて生活した。学校では、体育の時間も見学、運動会も見学。いつも隅っこからクラスメイトの楽しそうな姿を眺めていたという。
「私もスカートが履きたい」と、中学2年生の時、ひざ上10センチのところから切断し、義足を履いて生活するようになった。だが、ひざは曲がらず、男子生徒から「ひょこたん」とからかわれた。高校卒業後、洋裁学校へ通った。「手に職をつけないと、食べて行かれへん」という母親の勧めだった。その母は、藤原さんが知らないところで、「代わってやれるものなら代わってやりたかった」と自分を責めていたという。義足がすれて毎日のように痛みが走るという。


街頭で署名を呼びかける藤原まり子さん=2009年8月

最年少の原告、藤原さんが口頭弁論で行った陳述も忘れられない内容だった。
藤原さんは「私には、空襲の記憶はありません。でも、私の身に降りかかった戦争の苦しみは、一日たりとも忘れたことはありません」と切り出し、こう続けた。
「私の朝は、まず義足をつけるところから始まります。毎日、義足をつけるたびに、自分には左足がないのだと思い知らされるのです。あの空襲の時に死んでいたら、こんな悲しい思いや、いろいろなことで悩むこともなかったのに、と何度思ったことでしょう。戦争さえなかったら自分の足で走れたのに、階段もスタスタと上り下りできたのに、素敵な洋服を着て、ハイヒールやサンダルも履けたのに…。私は、生まれて一度も自分の足で歩いたことがありません。自分の足で歩きたいです」
裁判にはお金も時間もかかる。なぜ、提訴したのか。
「私は、子どもや孫のために泣き寝入りしてはいけないと思っています。あの戦争を風化させないために、これからの子どもたちの平和のために、この裁判をしようと決意したのです」
空襲によって受けた体や心の傷は戦後、70年以上たった今も癒えることはない。特に、安野さんや藤原さんのように、空襲で傷害を負った人たちは満足に治療も受けられず、戦争が終わってからも学校でいじめられ、偏見にさらされ、働く機会を奪われるなど、苦難の道を歩んできた。

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