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里山から自治を考える 19「里山から観た可能性」

二元化された世界観と里山

 里山とは、「生産林であり、なおかつ生物多様性を担保している。人間に近い自然の山であり、しかし、全てがコントロールされていないアンニュイ(曖昧な位置)な自然の山」です。
 都市部と、手の入っていない自然の間の、中間的な、アンニュイな部分に里山というエリアがある。将来、「市民社会」がより成熟していく流れがあるとすると、「市民社会」へと移行していく、その中間的な位置に、里山の活動がある。

大義に生きる市民

 里山は、放置してしまうとダメになるんですが、資本主義的には、炭や薪等、生産林としてはほぼ役に立たないエリアであるため、放置しておいたほうがいいんです。
 ですが、里山に手を入れようとしている、里山を復興させようとしている、ボランティアの方々がいる。
 彼らは、この里山を整備していく活動に大義を見出しているんです。
 企業は利益を求める、政治や行政は統制を求める、市民は大義を求めているんです。
 その大義の下、市民が自分たちのリソース(人手や資金)を使って、社会を良くしていこう、というのがボランティア活動であり、非営利活動であるわけです。
 里山というのは、儲からないので企業は手を出せず、リソースがないので行政も手が出せないという領域であり、ボランティアや非営利組織が活躍せざるを得ない領域とも言えます。
 都市部なら、それによって利益が生まれる可能性があり、企業が入り込む余地がありますよね。建物の指定管理などがその事例です。
 ところが里山は儲からないし、行政も手が出せない。そこで、市民が手を出さざるを得ないし、そこに市民社会としての大きな可能性を見いだせるのではないか、と思います。

社会変革と非営利組織の可能性

 企業人であるか、行政についているか、何かに属していないと不安になるのが日本人気質というか、農耕民族が持っている、固有の文化的側面ではないかと思っています。そして一般的な人たちは、家族を守るという大義以上に、社会のための大義は持っていないですよね。
 里山を守る活動には、そういう社会のための大義があり、それは非営利組織しかないと思うんですよ。
 この閉塞感のもと、本当に社会を変えようとするのであれば、非営利組織しかないのではないかと。
 ただ、日本の非営利組織の運営は、まだまだできていません。本当に市民社会のために働きたい、若者を含む人々の受け皿として機能していません。

ボトムアップ型へのパラダイムシフトが必要

 企業も、政治も、行政も、トップダウン型ですが、非営利組織は、下からの、市民からのやむにやまれない要望=ボトムアップで作られています。視点もしくみが違うんですよ。NPO法は、結局トップダウンで作られた、NPOを管理するしくみ以上ではないため、非営利組織のためのものにはなっていません。
 ですから選挙だけでなく、市民として、市民パワーをどう使うのか、という視点としくみと活動が必要なんです。日本では、それは個人パワーに任されていて、個の力以上になり得ていない。官でもなく、個でもない、公民としての意識がまだまだ足りないと思います。
 今の閉塞感を乗り越えるには、市民の公民としてのパワーが必要で、それを結集するためには、パラダイムシフト(枠組みを変えること)が不可欠だと考えていますが、そのパラダイムシフトをどうやって起こせばいいのかは、私にはわかりません。宗教だったら、簡単なのかもしれませんが。

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