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矢野宏の平和学習 05「民間の空襲被害者への補償を求める運動を立ち上げた一人の女性」

 太平洋戦争で負傷した民間人への補償を求める運動は1972年、名古屋に住む一人の空襲被害者によって始められた。
 杉山千佐子さん、2016年9月に101歳で亡くなるまで、「全国戦災傷害者連絡会」(全傷連)の会長として運動の先頭に立ってきた。
 杉山さんとの出会いは2007年にさかのぼる。
JR名古屋駅から市バスに乗り、林立する高層ビル群を抜けて東へ20分余り。名古屋市千種区の停留所でバスを降りると、ピンクの帽子に、真っ赤なコートを着た小柄な老婦人が待っていてくれた。
 左目に大きな眼帯をしているのは、1945年3月25日未明に名古屋を襲った大空襲で250㌔爆弾の爆風を受け、鼻の上と左目をえぐられた傷跡を隠すためだ。当時29歳、入院中に自分の顔を手鏡で見た時、声を失ったという。何度も自殺を考えたが、いつも周りに誰かがいて、死ぬに死ねなかったと語っていた。
 杉山さんもまた、苦難の戦後を生きてきた。
左目を失い、右目の視力も0・1以下に低下した。脳神経を痛め、マヒした左手には激痛が襲う。
 杉山さんは編み物の技術を取得し、弟の社宅の一部屋を借りて教室を開いた。自分で生きる糧をつかんだものの、その弟から突然、「結婚するので出て行ってくれ」と告げられた。仕事を求め、区役所で紹介された障害者厚生相談所を訪ねると、担当者から「五体満足の者でも職のないときに、障害者に仕事があるものか」と突き放された。
生きるために職を転々とした杉山さん。「実入りがいいから」と化粧品のセールスをしたこともあるという。
 「知らない家に飛び込むとき、顔のことを何か言われるのではないかと不安で心が震えました。蔑んだ眼差しで『いりません』と断られたり、子どもを呼んで『言うことを聞かないと、このおばちゃんみたいな顔になるよ』と言われたりしたこともありましたよ」
ようやく、南山大学の教授寮の寮母という安定した仕事に就くのは50歳の時。敗戦から20年余りが過ぎていた。
杉山さんが全傷連をたった一人で立ち上げたのは、南山大学の教授の一言がきっかけだった。「戦時中には『戦時災害保護法』という法律があり、民間人も救済されていた。
戦時災害保護法が公布されたのは、太平洋戦争開戦間もない1942年2月のこと。
 当時の日本政府は、国民総動員体制をつくり、厳しい罰則を背景に国民を戦争に総動員していた。それに呼応するため、民間の戦災被害者を救済する戦時災害保護法が制定された。
 例えば、死亡者の遺族給付金が一人500円。障害給与金は最高で700円。ちなみに、当時、米10㌔の値段が4円だった。
戦後、戦時災害保護法は、軍事扶助法や軍人恩給法と同様、廃止された。
日本を占領していた「連合国最高司令官総司令部」(GHQ)が、生活困窮者を軍民の差なく保護するという趣旨から1946年9月に生活保護法が制定されたためだ。
 その一方で、日本が主権を回復した1952年4月に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が公布され、翌53年8月には軍人恩給が復活した。
その後、「未帰還者」「引揚者」なども援護の対象となった。また、民間人でも原爆被爆者が援護法の適用を認められたが、民間の空襲被災者だけが蚊帳の外に置かれてきた。
 国は「空襲で傷害を負った者には、身体障害者福祉法などの枠内で対応している」という立場をとっている。しかし、実際は杉山さんのように目を片方なくした場合でも、残った目に視力があると、身障者手帳も交付されない。安野さんのように左足を失っても、小見山さんのようにやけどで顔中にケロイドが残っても身体障碍者年金の対象外なのだ。
杉山さんに会った時、90歳を超えていたが、こんなことを語っていた。
 「死んでいった仲間の無念、私自身の人生が奪われた無念を思うと、ここでやめるわけにはいかんのだわ」


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