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矢野宏の平和学習 09「10歳で家族9人を亡くし、孤児になった」

空襲で家族を失い、戦災孤児になった人たちも心に大きな傷を負っている。喪失感、孤独感にさいなまれ、引き取ってもらった親戚の家で肩身の狭い思いをして生きていかねばならなかった。
大阪府田尻町で美容院を営む吉田栄子さんは現在88歳。
吉田さんは1945年3月13日深夜からの第1次大阪大空襲で、大阪ミナミで工場を経営していた両親と2人の姉、6歳だった弟、同居していた叔父一家を含め、9人を亡くした。当時10歳、国民学校の4年生だった吉田さんは、大阪府岬町にある父方の親戚の家へ縁故疎開していたため、難を逃れた。当時、国民学校(現小学校)の3年生から6年生は都市を離れ、親戚を頼って避難する「縁故疎開」と学校でまとまって避難する「集団疎開」があった。
吉田さんが避難した先にも「大阪で大きな空襲があったらしい」とのうわさが流れ、叔父さんと難解電車に乗り、大阪市浪速区の自宅を目指した。市内は一面焼け野原。吉田さんの父親は、軍艦を拭くための大きな雑巾を生産する工場を営んでいたが、その工場も跡形もなく、瓦礫となっていた。

手がかりを求めて、近くの国民学校へ行くと、校庭にはたくさんの遺体が並べられていた。
遺体を隠すようにトタン板がかぶせていた。吉田さんが遺体の足元から確認していくと、ある女性の遺体は自分と同じ毛糸の靴下を履いていた。「あ、これはねえちゃんや」。トタン板をのけて顔を確認する勇気はなかった。「悲しいというより何が起こったのか、わからなような状態で、ただ茫然としていた」という。
両親や弟、叔父家族の遺体が焼け落ちた喫茶店から見つかったのは数日後のこと。逃げる途中、道の両側の建物が焼け落ちて進行方向をふさがれ、近くの喫茶店に逃げ込んだところ、そこも焼け落ちて炎に巻き込まれたと聞いた。
「もう家族に会えないと思うと悲しくて、これからどうやって生きて行けばいいのか不安でたまりませんでした。叔父さん叔母さんに気に入られないといけないと思い、畑仕事や小森など、何でも進んでやりました」
大切な家族や親せき9人亡くし、帰るべき家や財産を失った吉田さんは戦後、親戚の家を転々とした。
中学1年の時にあずけられた叔母の家は幼子を抱えて貧しかった。
「遠足などで弁当を開くのが恥ずかしかった。ご飯があまりなく、サツマイモを刻んで炊いたものでしたから。親がいる子はおいしそうなお弁当で、親が生きていれば、と悔しい思いをしたものです」
最後は、母の弟の家に引き取られた。中学2年の時だった。美容院を経営していた叔母に4人目の子どもが生まれてからは、子守をしながら家事までこなすようになっていた。
井戸から30回も汲んできた水を湯船に入れ、薪で風呂をたいた。家族全員が入り終えるまで、火種を絶やさぬようずっと見守らなければならない。洗濯や繕い、細かな雑務もあり、勉強するどころではなかったという。


2009年12月、東京大空襲訴訟の集会で挨拶する吉田栄子さん

裁判の口頭弁論で、吉田さんはこう陳述した。
「戦災孤児の中でも親戚が引き取って育ててくれたのですから、感謝しなければなりません。でも、やはり守ってくれる父や母がいないので、そこでの生活は居ずらく、気を遣うばかりでした。家族一緒に生活できていれば、どれだけ精神的に安らぐ生活が送れただろうか。まったく別の人生を歩むことができただろうにと思うと、残念でなりません。国には、空襲被害者に何ら支援をしてこなかったことに対して、きちんと謝罪してほしいと思います」

2008年12月、大阪地裁に集団提訴した大阪空襲訴訟は7人の原告が大法廷で自らの空襲体験や、その後の苦難について意見陳述した。
提訴から3年後の2011年12月7日に判決を迎え、裁判長は「原告の請求をすべて棄却する」と述べた。
原告らは控訴、闘いの場は大阪高裁に移ったが、わずか2回の審議で結審。2013年1月16日に控訴は棄却された。
原告らは最高裁に上告したが、2014年9月11日付けで上告棄却。原告の敗訴が確定した。

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