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Vol.1 同期生「ランナーズ」と「ポパイ』

 2005年11月20日東京国際女子マラソンを忘れない。高橋Qちゃん2年ぶりのレース。 乾坤一擲、35kmの上り坂手前のスパート。追いすがるふたり(ひとりは03年大会優勝のエルフィネッシュ・アレム/エチオピア。このときQちゃんは2位、アテネ五輪代表を逃した)をぐいぐいと引き離し、国立競技場に万雷の拍手と歓声のなか堂々の凱旋。みんごとに雪辱を晴らし、大復活の大優勝である。

 忘れない理由はもうひとつある。Qちゃんの大感動ドラマをラジオで、その一部始終を、聞いていましたさ。彼女がゴールテープを切った5分後に興奮のままに家を飛び出してしまった。身につけるはTシャツと短パン、ポケットにアメ玉3つ、それだけ。

尚子さま、ごめんなさい

水も持たず、お金も持たず。なれど無謀とは思わなかった。たかだか42.195km、カラダの小さな女子が2時間ちょっとなら、10年間最低でも週2日合計15kmは走っているこのオレさまなら、初めてだけど4時間内で走れるさ。向かうは多摩川サイクリングコース、バイクでさんざん走って知っている20km地点で折り返せばいいじゃん。

 愚かでした、マラソンをなめてました、高橋尚子さまごめんなさい。20kmの折り返しですでに両足が棒、タクシーに乗りたくてもお金なし、助けを求めようにも電話なし。30kmで股関節痙攣&全身筋肉痛。晩秋の河川敷、日はとっぷり暮れて肌寒い。

 意識朦朧、ヨタヨタ千鳥足、空腹、一歩ごとに足裏からビリリと骨に浸みわたる疼痛。家に帰り着いたのは7時過ぎ。オレさま悔い改めワタクシは大馬鹿モノでした。

9万人が応募したよ

 くやしいかぎり。翌日、足を引きずり書店に出かけ「誰でも走れるフルマラソン」の類をまとめ買いしたのはいうまでもない。やがてマラソンランナーのはしくれとなったウチサカ、ワレとまわりを見渡して断言できる。世界に走ることの好きな人たちは多けれど、わが同胞ほどマラソンを走ることが好きな国民はいない。

 2019年から東京マラソンの定員は3万7500人と、とんでもない数になっているけど、07年第1回大会でも定員は3万人、その3倍の9万人が応募してる。第2回大会は5.2倍 、09年第3回大会はなんと7.5倍、22万6378人が応募している。

 びっくり数字はまだある。米国ハワイ・ホノルルマラソンの最多エントリー数は92年の3万905人。そのうちジャパニーズはなんと1万8286人。参加総数の2/3が、42.195kmを走るために飛行機でやってきた日本人なのだよ。

青梅マラソン

手渡し販売「ランナーズ」

 さてさて、そもそも。橋本治朗さん、下条由紀子さんのふたりが雑誌「ランナーズ」を作らなかったら、ここまで日本人はマラソン好きにならなかっただろう。東京マラソンはいまだ開催されていないかもしれない、ホノルルマラソンはオアフ島のごく普通のランニングイベントに過ぎなかったかも。

 「ランナーズ」創刊号は1976年2月第10回青梅マラソン(昔も今も距離は30km、この年の優勝は英雄ビル・ロジャース)大会会場で手渡しで販売された、失礼ながら同人誌に毛の生えたようなもの、まだ書店販売ではない。当日青梅マラソン(10km部門も含め)の参加者は7813人。
 
 全員が1冊づつ購入したとしてもその数だ。それでも先見の明があったのか、裏表紙の広告は《オニツカタイガー》。《アシックス》と社名を変える1年前である。橋本さんも下条さんもランナー、ランニング大会に出たくても一般市民が参加できるレースは少なく、大会の情報はさらに少なかった。
 
 当時は新聞社主催の大会がほとんどで、朝日新聞を読む人は毎日新聞の主催する大会を知らず、その逆も同様。それも10km、20km、30kmといった大会ばかり、フルはきわめて少なく、ハーフにいたっては皆無の時代。それでも仲間のランナーたちに、レース情報を伝えたい。橋本さんと下条さんはそれで日本初のランニング専門誌を作った。創刊号には青大将いや北の国の五郎、田中邦衛さんが市民ランナーとしてクローズアップされている。

ランニングではなくジョギング

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 同じ76年4月にあの「ポパイ」も創刊されている。巻頭はジョギング特集。UCLAやバークレー校に取材に行き、走っている学生たちを取材撮影し、ジョギングシューズをコト細かに分析し、初心者のためのジョギング・プログラムを案内している。

「ポパイ」はタイムを縮めようとか、青梅マラソンはもちろん、レース参加にはまったく関心がない。走ることは、かっこいいカラダになるため、かっこいい《ナイキ》を履きたいからだ。なので本気のランニングではなく、仲間とおしゃべりしながらのジョギング。マラソン42.195kmを走るなんて「ポパイ」は考えもしなかった。

1986年、フィットネスがやってきた

 その10年後、1986年、同じマガジンハウスから良質なカラダで豊かな人生を送ろうという「ターザン」が生まれる。健康で元気なカラダがあれば、毎日が快適じゃん、かっこいいじゃん。それまで日本になかった『フィットネス』というライフスタイルの専門誌、「快適なんてカンタンだ」がキャッチフレーズだった。

 「ターザン」はジョギングどころか、マラソンを走るだけでは満足しなかった。

 続く。

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