本来のわたしとは。

本来のわたし。
わたし、という存在を意識すると、いつも、とても孤独な感覚に襲われてきた。
全く力のない、影響力のない、世界の隅っこに、いさせてもらっている。
本当は、いても、いなくても、どうだっていい、存在なんじゃないかと。
むしろ、人間として生きて、お肉を食べたり、服を着たり、車に乗ったり、お皿を洗ったりするだけで、この地球環境や、どこかの誰かに、危害を加えている。存在するだけで、とても迷惑な奴なんだと思ってきた。

息を吸うのも、吐くのも、憚られて、存在していて、ごめんなさいって、思ってきたんだ。明るくて、楽しくて、嬉しくて、幸せで、、、何も知らずに傷つけてきて、ごめんなさい。と。

本当に悲しいことなんだけれど、世界には、やっぱり問題は溢れている。
それは本当に悲しい。そして、その悲しみを知って、現実を知っているのに、どうしてなかなかそれに対して、解決できるようなアクションを起こせていないのか、どうして、自分は何の役にも立てないのかと、本当に辛かった。知っているのに、救ってあげられないことが、とても悲しかった。それどころか、支援される側になっていく、その道に足を踏み入れているような段階にもなっている。

この悔しさ。この悲しさ。この情けなさ。惨めさ。

でも心のどこかでわかっている。
私は、これを、まさに、これを、体験したくて、今生生まれてきたのだと。

天空にいては、それは、身分的な意味でも。生まれる前という意味でも。
感じられなかった、この地を這う虫が歩む道々で見る景色。
草の色、土の匂い、他の虫たちの動きや命の響き。
そうゆうことを、わたしは全身を使って、味わいたかった。
その味わいの中の要素の一つが、この肉体が張り裂けそうに響いてくる、悲しみや、辛さ、惨めさ、情けなさ、悔しさなんだ。

この味わいの深さがあればあるほどに、天空の明るさは眩しく感じられる。
このコントラストが、きっと、体験したかったことなのだろう。

この肉体全部を使って感じる、感覚、感情。それを知っているからこそ、できること、寄り添える相手や、その深さがあることを、わたしは知っている。だから、あえて、この道を選んでいる。

弥勒の世だ。
蓮で言えば、あの世に行ってから幸せになれますよと念仏を唱えさせて人々の心を慰める教えでもなく。今修行することで魂が救済されますよと苦行を強いる教えでもなく。
今、この、クソ食らえな、泥沼の、混沌として、出口が見えないような、この現実の中で、それでも笑顔で、笑って、そのおおらかさで人々を「いま、ここで」悦びへと導く。そんな道士が、求められているのだ。
その道士に、きっと私はなりたいのだろう。

泥の中で、蓮は、ゆっくりと、着実に、その根を太く、力強く、育てていく。私は、今、泥の中にいる。

本来のわたし、というのは、実は、その泥の中で奮闘している、個のわたしではないのだ。

本来のわたしとは、実は、この宇宙存在、すべてを存在させている、おおいなる集合的な存在。創造主であり、神。全ての存在が、わたしであり、わたしの中にも、また全ての存在がある。

わたしたちは、素晴らしい。
わたしたちは、ぜんぶでひとつのおおいなる生命体。
草木も、空気も、鉱物も、殺人犯も、善人も悪人も、今この瞬間殺されている家畜も、今この瞬間育てられている赤ちゃんも、水も、森も、土を耕しているみみずも、過去の偉人たちさえも、全てが、一つの生命体である。
そして、その一つの生命体としてのリズムを刻んでいる、この鼓動全てが、本来の、わたしなのだ。

その本来のわたし、ソース、命の源に、アクセスしている、つながっている瞬間、時間、空間を、どれほど長く、深く持てるかで、幸福感が変わってくる。それは一体感と言ってもいいし、多幸感とも言えるかもしれない。

人はその感覚を、食べたり、飲んだり、メディスンを使ったり、瞑想したり、音楽を奏でたり、踊ったり、祈ったり、歌ったり、ヨガをしたり、セックスしたり、ドラッグをしたり、学んだり、読んだり、書いたり、作ったり、祭りをしたりすることで、捉えようとしてきている。

そのソースにアクセスする方法というのは、一つ一つの個体…一人一人のくせや、経験値、、、、魂が蓄積している経験値や遺伝子的ルーツによって、おそらくやりやすさが変わってくるのだ。

あるひとは、味覚からつながりを感じることもあるだろうし、ある人は、研究、またある人は、歌ったり、踊ったり、絵を描いたりすることでその領域へ行きやすくなる。わたしの場合は、こうやって書いていくこと、音楽、旋律からメッセージを受け取ること、そして、体の筋繊維、骨格を緩めながらする対話から、命の悦びを味わい、祝福するセンスに長けている。

多分、セックスをするのが大好きだと思ってきたところは、ここにある。
あの動きというのは、開脚したり、筋繊維に深いところからアプローチできるから、細胞レベルで悦びや、生命体としての一体感を感じやすい。
人間の遺伝子が持っているルーツの情報として、その感覚は強く記憶されているだろうから、セックスを通して、一体感や多幸感を味わうという反応、パターンを多く持っている人が一定数いるのは、納得ができる。

でも、実は、それだけではない、セックスから受け取る感覚と類似した要素を受け取ることは、他のことでも代用は可能なのだ。
大切なことは、自分という一定の特性を持つ存在が、どんな場面で、どんなアプローチで、生きている幸せや、一体感、つまり、「本来のじぶんに還る」ことがしやすいのか。その反応のパターンを見つけること、気付くこと、わかってあげること、そしてそれをなるべく、人にも、環境にも、もちろん自分にもやさしいやり方で、再現していける状況を作っていくことだ。

わたしにとっては、ストレッチやヨガ、お風呂に入ったり、よもぎ蒸しをしたり、ただただハグをしたり、温冷浴をしたり、サウナに入ったり、呼吸に意識を向けたり、音を出したりすることが、自分の細胞の振動を整えてくれるものだと気づいた。

以前、付き合っていた男性は、食のことを研究している人だったけれど、時々マクドナルドでハンバーガーをおやつがわりに食べていた。そして、どこで、いつ食べても、安定した品質を提供していることの安心感がいい。と言っていた。

その人と関係が続かなくなったのは、安定とは、徐々に下降線を描く習性があったからなのではないか。

その辺でやってくれば?と、その男性のパートナーは言い放ったらしいけれど、その辺で食べてくれば?マックでも行ってくれば?とすごく似ている。性のもたらす、複合的な要素を軽視している発言だなと思った。

おそらく、その単純な快感、反応。
ハンバーガーを食べたら、安定して美味しいとか
このひととセックスしたら、安定して気持ちよくなれるとか
そうゆう、自分と世界の関係性の捉え方をするのではなくて、もっと繊細で、全体性のある関係性を育む意識、それは、特定の誰かとの関係、という意味ではなくて、全体の宇宙との関係という意味なのだけれど。その意識を持つことが、永続的に多幸感や一体感を持ち続ける秘訣だと思う。

マクドナルドでお金を出して、一定のおいしさを購入する。
世界は、そんな小さなパイプで満たされるような存在ではない。
「わたしたち」は、そんなつまらない取引、交換条件で満たされるような存在ではない。

でも、そんな感じの人が、わたしの目の前に、かつていたということは、わたしたちの中に、その要素があるということ。その人に「その辺でやってくれば」と言い放ったパートナーがいた、ということも、わたしたちという生命体に、その要素があるということ。

わたしたちという存在は、美しい命の音が織りなしあって、奏で合って、重層的に響き合う宇宙を、いつも、この瞬間も育み合っているのだ。
それが、本来のわたしたちであって、個に由来する「わたし」なんていうものは、ただの幻想でしかない。

その幻想と幻想を戦わせている、個々人間の争いや、瑣末な取引や、エゴの張り合いのようなものは、全て宇宙の塵にはなり得ても、宇宙の美しさを成し得る主要素にはなり得ないだろう。小さな範囲の「わたし」の中に、まだまだある、このエゴの部分、エゴの要素、これがある限りは、なかなか真実のわたし、本来のわたしには、辿り着きにくいのかもしれないけれど、それでも、わたしは自分の体感覚を通して、そして、植物たちとのコンタクトを通して、還っていく道を、その光の道を、見つけつつある、見つけたような気がする。そのことに、希望を持ちたいと思う。

本当に乱文で困ったものだけれども、
でも、わたしは、これを書きたかった。
とにかく、強調したいことは、わたしたちは、ひとつのおおいなる生命体であり、宇宙全ての存在が、わたしたちであるということ。

月がそのリズムを28日周期で刻んでいるように
地球が、365日かけて太陽の周りを進んでいるように
その太陽さえも、ゆっくりと時間をかけて、回転しながら、宇宙の中を進んでいるように

わたしたちのどの要素も、それぞれのリズムで、テンポで、それぞれの音を響かせながら、歩んでいる、奏でている、織りなしている。
それに遅いも早いも、なく、全ては完璧で美しくて最高最善に導かれている。
月は太陽になれないけれども、太陽もまた、月にはなれない。
全てはお互いの存在に依存し合っていて、支え合って、影響を及ぼし合っている。

わたしが、結婚したかった理由は、そこにある。
なぎちゃんは、今のところ、今のわたしの持つ、かわいらしさも、醜さも、素敵さも、ズボラさも、全部味わってくれている存在だ。
そうだ、この関係性は陰陽統合に満ち満ちている。
誰かと少しだけ会って付き合っているような時には、ない、人生の深みやドロドロしたもの、味わい、その中の楽しみに溢れている。それが何よりも嬉しいし、温かいし、幸せなことなのだ。
そうだ、田植えをするときに、あの泥の中は、何か温かい。その感じに似ている。このドロドロさ、泥沼ならぬ愛沼の中で、私たちは、育んでいる。どうしようもない愛しさを育んで、生きている。

弥勒様の道を歩もう。
泥の中で、全てがつながり影響しあう、生命体の中で。

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