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39. サボタージュ。内向きか外向きか。

標高5,000mから車で駆け降りる。
広大な大地は、見せる姿を次々に変えていく。
見渡す限りの大地には、僕らしかいない。
僕らしかいない。
@チリ、アタカマの近く



プロコーチになりたいと思ってる。
この気持ちはコーチングを学び始める前から変わらない。
コーチングを学んでから今の自分があるのではなくて、自分の考えや在り方にフィットするからコーチングを学び始めた、という方が感覚としてフィットする。


コーチングに興味を持ち始めてから、今まで

コーチングに興味を持ち始めたのは2012年か2013年頃。
CTIの基礎コース(初級)を受けたのはそれから随分先になって2019年。
基礎コースを受けてから、50名強にコーチングを届けた。
それから、応用コース(中級)を受けたのが今年の2月から。
そして、更に11月から最終段階である上級コースに進む。

上級に進むかどうかは決めていなかったけど、それでもプロコーチにはなりたいと思っていた。
スキルを学ぶのは応用コースまでで完結しそうだったので、そこから先のスキルの体得は自分でなんとかしようという考えだった。(結局、上級に進んだ仲間の感想を聞いて、しっかりスキルを高めるために上級に進むことにした)

プロコーチになることを意識していたから、応用コースの途中から、有料での継続クライアントを募集し始めた。まだ3月だった。
多分、行動としてかなり前のめりだったと思う。

余談だけど、僕は割とそういう質で、世界一周も、将来のライフプランも、何年も前から計画や準備を始める。
そういえば、中学生の頃に入りたかった高校までチャリで通ってみたりもしたな。まだ受験もしてなかったけど。


僕自身とコーチングと周囲の人々との関わりについて

実は先日、マイコーチのセッションを受けていた中で、知り合い全員の前(例えばFacebookの投稿)でコーチングをやっていることを堂々と発信することに対するサボタージュのようなものを指摘された。

「コーチング的な考え方が響く人もいるだろうし、(対面で伝えるならまだしも)投稿を見るだけでは変に邪推して関係が悪くなってしまう人もいるかもしれない。だから、対象を絞って伝えたり発信したりするのが良いと思ってる。」
僕はそんなことを話した。

事実、何度かFacebookで投稿してみたものの、最初の1・2回を除いて全然いいねが付かず、敬遠されてるんじゃないかと思ってる節がある。
それとは別に、時々遊んでいた友達と久しぶりに話した時、コーチングの話を少ししたら「あの投稿を見て、コーチングって何なんだろうって思ってた」と言ってくれた。ニュアンス的に、怪しんでるというトーンを感じた気がした。

実際のところはどうかわからない。
だけど、時に萎縮している自分がいる。
コーチングへの誘い方や文面も修正を加えてきた。(今は「胸を貸してください!」というスタンスが一番しっくり来てる。けど、それがしっくり来ていていいのかはやや疑問ではある。)


コーチであることと、コーチングを発信することの違いとは

マイコーチからは、「コーチングの価値を自分自身が信じられてないのでは。その価値を考えることを設問として、次回セッションまでに考えてみて下さい。」と言われた。
コーチングの価値は重々わかってるつもりだ。

何度も何度も反芻して、何度もnoteなり何なりに書いてきた。
軸も一貫性もあると思ってる。
人は木みたいなもので、栄養のある土があり、十分な水があり、そこに邪魔もなく、光があれば真っ直ぐに大きく育ち、枝葉や根を広げていく。
そんな、あるがままの自分と、あるがままの世界と、そして十分なリソースがあれば、その人らしく大きく、輝いていくと信じてる。
それを、コーチングによってサポートしていきたい。

それでも、自分がいかなる時も堂々とコーチとしていられていないのは、どういうことなんだろう。
いつもは認知多めの柔らかい関わりをするマイコーチの、棘のある反映がジクジク胸に残り続けてる。


一つ感じるのは、コーチングの中身と効果を文面でわかりやすく簡潔に説明できない自分がいること。
口頭なら、自分の思いを込め、過去のクライアントさんの事例を伝えて、悪くないレベルでは伝えられていると思う。

一変それが文章になると怖くなる。
どう思われるかわからない。スピリチュアルっぽく聞こえて、真っ直ぐ受け止められない人もいるだろう。なんてことを思う。
天動説を信じている人に地動説を説明するのが難しいように、具体と抽象を行き来して理解することが不得意な人に事例を踏まえながら説明してもなかなか伝わらないように、コーチングが伝わりやすい人とそうでない人がいると思う。そして、それは別にそれでいいと思う。

嫌な言い方だけど、人のレベルはそれぞれだし、信じるものも在り方もそれぞれ違ってていい。
実際、80名強にコーチングを届けてきて、やっぱり自分で考える力がある人だとか、自分の足で人生を歩んでいる人の方が、コーチングは響くし、効果が出やすいと感じる。もちろん、僕の技量の問題もあるでしょう。

これは、サボタージュなのだろうか。
サボタージュだからこそ、こんなに長文で言い訳を並べ立てているのだろうか。

だけど、この嫌な感じと抵抗感は、きっとサボタージュな気がしている。

俯瞰して、他人事として考えてみるなら、「自分を出しちゃった方が、自分と合う人とはより近い関係になるし、そうじゃない人は良い意味で距離ができるからいいんじゃないか」と言うだろうな。

それから、分かりやすく文面や図にすることに対して苦手意識や億劫な気持ちを感じている気もする。

逆に、友達と久しぶりに会った時には自分がコーチングをやっていることを「言わなければ!」とプレッシャーに感じているような気もする。
きっとこれは、不安や焦りから来るものだ。相手のためではなく、営業的な姿勢になってる。


誰のためにやっているのか

そういう意味では、Facebookの投稿や、誰かをコーチングに誘おうとする時に嫌な感じになるのは、自分のための投稿になる時だ。誰かの為と言うよりも、自分の利益を重要視している時。

本来は、純粋に相手のためになる発信や関わりをしていきたい。
そのついでに、その仕組みの中で、結果的に自分の利益が生まれるようにしたいと思ってる。
だけど、意識の重さとして“自分の利益>誰かの利益“になってると、嫌な感じがするんだろうな。

ポイントはそこだ。
コーチングの発信も、その他の発信も、自分の利益やエゴのために行っている時、嫌な感じがする。
きっと、以前Facebookで投稿していた時に感じた、やれ合う人と合わない人がいるとか、やれスピリチュアルっぽくて受け取ってもらえないとか、そういうのはやっぱりサボタージュの声っぽい。

意識が内側を向いてるか、外側を向いてるか。
ただそれだけ。

意識が外側を向いているなら、届けたい人に届けたいメッセージを送ればいい。それが不特定多数の人が見られるメッセージだとしても、届けたい人に届けばいい。
意識が外側を向いているなら、それ以外の人にどう思われるかという自分のエゴは、実は気になってない。

きっと、その誰かにはメッセージが届くし、回り回って僕にも光が注がれるはず。
そんな世界観の中で、僕はコーチとして在りたい。


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