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薩摩藩とハゼノキ② ハゼノキ政策と桜島

みなさんこんにちは!前回から始まりました。薩摩藩とハゼノキシリーズ。江戸時代、ハゼノキと木蝋産業のパイニアであった薩摩藩はどのような政策を進めていたのでしょうか?藩内の農家だけでなく郷士からも評判が悪かったと伝わる政策の実態はどういったものなのか?先週はそのはじまりとなるハゼノキの伝来に関して書いてみました。

薩摩藩のハゼノキの政策は延宝年間(1673年~)の禰寝清雄(ねじめきよかつ)による農業政策と、天保年間(1830年~)から始まる調所広郷による天保の財政改革からとで、大きく2つに分かれます。今回は前半となる延宝以降どのようにしてハゼノキは薩摩藩全体の政策となり、広まったのか?に焦点をあてたいと思います。


■禰寝清雄による櫨植栽推奨

現在私が暮らしている錦江町、南大隅町は昔から「大根占」、「小根占」と言われ、いまでもこの名称で呼ばれることが多くあります。この「根占」の語源は「禰寝」であり、治暦五年(1069年)の延久の荘園整理令以降文書として使われるようになります。この地を納めたのが「禰寝氏」であり、島津氏よりも早く登場した士族でもあります。前回登場したハゼノキを取り寄せた禰寝重長(しげたけ)のころから「根占」という名称が一般化されたといわれています。
ものすごく話がそれますが、加山雄三さんや、競馬のジョッキーである武豊さんも禰寝氏ゆかりの人物です。

前置きが長くなりましたが、前回お話ししたハゼノキ伝来説3つのうち、2つがこの根占の地に由来するものでした。これはハゼノキを薩摩藩の政策として推奨したのが、禰寝家21代当主禰寝清雄であることにも関連しているのではないかと考えています。延宝元年(1673年)清雄は田宮一山から製蝋の利を聞き、旧領である小根占より櫨苗を吉利(現在の日置市)に取り寄せたといわれています。当時からすでに根占はハゼノキの植栽地であったことが分かります。(禰寝家は文禄検地(1595年)により、根占から吉利へ移封されています)

小根占(現南大隅町)のハゼノキ

清雄の政策は、はじめ所領である吉利を中心に展開し、頴娃牧ノ内に10,400本、仙田、池田、十町(指宿)に10,210本のハゼノキを植樹しています。また、貞享年間(1684~1688年)に製蝋所を吉利に設置しています。さらに元禄年間(1688~1704年)にかけて、所領である吉利、頴娃を中心とした薩摩半島だけでなく、垂水や牛根といった大隅半島の沿岸地域にもハゼノキの植栽を勧め、ハゼノキを薩摩藩全体で奨励していきます。

ハゼノキの推奨は、薩摩藩の苦しい財政状況を打開するための殖産産業でした。薩摩藩の領土は加賀藩につぐ第2位の72万石でしたが、シラス台地中心の土地柄もあり実際の石高は半分以下であり、財政状況は常にひっ迫していました。その打開策としてハゼノキと製蝋に着目したのでした。藩財政の打開策ということもあり、ハゼノキの植栽や製蝋は、藩による専売と強制植樹など厳しい管理の基進められます。清雄は財政が安定した折には強制策は取りやめるべきとしていましたが、薩摩藩の財政難の解消は、天保の財政改革以降となり、その後もこの強制策は続いていくことになります。

日置市吉利にある禰寝家歴代墓所(旧園林寺)

■汾陽盛常と種子島久基による推奨

禰寝清雄と併せて、薩摩藩のハゼノキ政策の方向性を決定ずけたのが、宝暦六年(1709年)の汾陽盛常(かわみなみのりつね)によるハゼノキと製蝋増産策の提言でした。盛常は、ハゼノキの植栽と製蝋専門の役人を置き、桜島では始まっていた畠石(米石)を櫨の実よって代用する政策を沿岸沿いの地域を中心に導入すれば莫大な収益を生み出すと進言しています。この当時桜島ではすでに製蝋により、銀四、五百貫もの利益を生んでいました。

また、盛常は清雄存命のおりの天和三年(1683年)。薩摩藩の作人心得となる「農業法」を編纂しており、農業を監督し、収納を厳しく取り締まる旨を説いています。清雄のハゼノキの普及策と併せて広められた農業法の考え方は、ハゼノキの厳しい管理体制のベースとなっていきます。前述の通りこの当時薩摩藩の財政は非常に厳しく、この解決策としてハゼノキ政策と農業法の考え方で活路を見出そうとしたのかもしれません。

薩摩藩におけハゼノキ政策最後の一押しは、琉球から甘藷を取り寄せたと伝わる、薩摩藩家老種子島久基による推奨でした。農業政策として藩内に広くハゼノキを植栽し、その体制を整えた禰寝清雄と汾陽盛常。そして、対外的な輸出品として、「殖産産業の中でも最も重要なのが櫨であり、櫨蝋が重要な輸出品となる」としてさらなる推進を勧めた久基。まだ甘藷も甘蔗も本格的な生産が始まる前、薩摩藩を代表する殖産産業が始まります。

宮内原陽水

余談ですが、今回初めて知った汾陽盛常ですが、ハゼノキ以外でも農業政策で名を残しています。盛常は、国分平野の新田開発に注力し、正徳元年(1711年)から建設された「宮内原用水」の計画から完成まで尽力しました。この結果、国分平野に430haもの新田が実現します。盛常は藩全体の財政政策と合わせて群奉行として、国分・隼人の農業基盤の向上を図るなど、この時代を代表する人物の一人でした。ハゼノキを通じてまた1人歴史上の偉人を知ることができました。

■桜島と平右衛門櫨

かくしてハゼノキは薩摩藩全体の政策として広ります。そして、その中心地は桜島でした。桜島がハゼノキにおける中心地になりえたのは地理的要因として、米作に不向きな土地柄でもありましたが、最初期に伝わった製蝋技術にもその要因がありました。この方法は「横木式」や「地獄絞り」とよばれる方法で、会津藩から訪れていた金山職人によって漆蝋の搾油方法として伝えられた云われています。これ以前の製蝋方法は明確にはわかっていなのですが、この方法はかなり画期的なものだったようです。

猪苗代町会津民俗館にある「横木式蝋絞器」

その製蝋技術を受け継いだのが、桜島白浜村の村山四郎兵衛でした。四郎兵衛は民間の垂蝋所として白浜村で製蝋を開始し利益を上げます。これにより四郎兵衛は生蝋垂方、櫨方主取に取り立てられ、桜島藤野村(のちに横山村へ移設)に作られた藩営の垂蝋所を任されることとなり、櫨専売事業への体制は四郎兵衛を中心に整えられていきます。その後、汾陽盛常が進言した製蝋による利益は、享保11年(1726年)に銀996貫863匁となり、15年ほどで倍増しています。

さて、ここから少し時をおいた明和年間(1764~1772年)。薩摩藩のハゼノキにおいて重要な発見が桜島でありました。それは他藩で「桜島」ともよばれる「平右衛門櫨」の発見でした。石交じりの海辺の地域に強く、沿岸部への植栽を推奨していた藩の政策とも相まって藩内で広く使われていくようになります。そして、これが薩摩藩唯一と言って良いハゼノキの優良品種となりました。
しかし、この発見のわずか数年後、桜島は安永大噴火(1779年)に見舞われ、12万本という多くのハゼノキが焼失してしまいます。しかし、すでに諸郷へ広まっていた平右衛門櫨は再び桜島に植樹され、その繁栄を取り戻すことになります。

桜島横山町にのこるハゼノキ

さて、次回はいよいよ「薩摩藩とハゼノキ」の核心部でもある、なぜハゼノキはそんなにも嫌われたのか?を中心に天保の財政改革以降の薩摩藩のハゼノキについて書いていこうと思います。調所広郷の改革でさえその評価を変えることができなかったハゼノキ。その行く末は?


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