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薩摩藩とハゼノキ① ハゼノキはいつ伝来したのか?

皆さんこんにちは!改めまして2024年度からnoteを投稿していきます!毎週金曜日に更新していきたいと思いますのでよろしくお願いします!

久々のnote再開!ということでいよいよ地元でもあり、ハゼノキ発祥の地と伝わる鹿児島、薩摩藩とハゼノキの歴史に関して紹介していこうと思います。随分と前になりますが、前回の記事で「2つのハゼノキ」について記載しました。記事はこちら↓

今回の「ハゼノキ」は、現在にも伝わる和ろうそくや鬢付け油、化粧品の材料となる「ハゼノキ」のお話です。
伝来に関しては、主に3つの説が伝わっていますが、どのようにしてハゼノキは薩摩藩に広まり、西日本一円に広がっていったのか?その始まりのお話。ぜひ最後までお付き合いください!


■伝来説①禰寝重長輸入説

禰寝重長(ねじめ しげたけ):1536年~1580年
大隅国の禰寝氏16代当主。現在の肝属郡錦江町、南大隅町の領主

大隅半島がハゼノキの故郷と伝わる2つの有力説のうちの1つが、この禰寝重長が天正年間(1573~1592年)に当時交易のあった中国(当時は明)の交易船に依頼して櫨苗を取り寄せたとする説。
禰寝氏は当時独自の交易ルートを持っており、領内に唐人街があったほど盛んな交流が行われていました。その交易船に依頼しハゼノキの苗と育成方法を取り寄せたとされています。

現在日本に伝わる最も古い説であり、南大隅町辺田地区にある記念碑にもこのことが書かれています。結論からいうとこの説は半分正解半分不正解と考えています。根拠となるのは2つ

①江戸時代に薩摩藩の櫨は「薩摩櫨」や「桜島櫨」とは呼称されていましたが、決して「唐櫨」と呼ばれることはありませんでした。唐芋のように中国から伝来であれば「唐櫨」とも呼ばれていそうなものですが、そういった記録はいっさい残っていません。
②中国のハゼノキ=黄櫨は、ハグマノキであり、私たちの知るハゼノキではありませんでした。また、清代、明代を代表する中国の農学書である「本草網目」や「天工開物」にはハゼノキではなく烏臼木(ナンキンハゼ)の記載はありますが、ハゼノキに関しての記載がなく、明国から苗を取り寄せたとするのには疑問が残ります。

以上の2点を踏まえて考えると、重長が櫨苗を取り寄せたとすると「明」ではなく、別の場所から「自生のハゼノキの苗」を取り寄せたのではないでしょうか?それは後日お話しする、薩摩藩中にハゼノキの植栽を推奨する禰寝家21代当主清雄(きよかつ)の行動からも推察できます。以上の理由から半分は正しく、半分は間違えていると考えています。

禰寝重長像

■伝来説②大島代官有馬純定持ち帰り説

有馬純定:詳細わかり次第追記します。

寛永十四年(1637年)当時の大島代官であった有馬純定が大島に自生していたハゼノキを持ち帰り、指宿・山川に植樹したとする説。
こちらはこれ以上の情報があまりなく、江戸時代を通じて山川がハゼノキの一大生産地でり、最初の垂蝋所が設置された地域であったことに由来すると思われます。当時開聞岳の周辺には多くのハゼノキの巨木が見られた事も一因になっていそうです。

奄美大島には現在でも多くのハゼノキが自生していることから、おそらく持ち帰って植樹をしたこと自体は事実なのではないかと考えています。
ただし、この2年後寛永十六年(1639年)に山奉行所手形による、櫨の実の運用銀を納め、買受人を定めたうえで独占的に買い取りを行うよう指示がでています。伝来の2年後に独占指示をするとは考えづらく、上記通り単に持ち帰ったこと=発祥と後年伝わったのではないかと考えます。

余談になりますが、この有馬純定は別の逸話でも名前が残っています。今も指宿山川成川に伝わる「成川神舞(なりかわかんめ)」は、京都の吉田家から裁許状を受けた有馬純定が、慶安二年(1649年)藩主島津家久の前で神舞を舞ったのが始まりと伝えられています。ハゼノキの伝来を調べていると意外な面白さに気づいたりもします。

■伝来説③異国船渡来説

年代として最も新しい説がこちらの異国船からの伝来説です。
正保二年(1645年)「異国船が桜島の小川に漂着し、ハゼノキの種子と育て方を伝えた」という説。実は薩摩藩以外の書物や記録の多くは、この説を採用しており、桜島に「小川」という地名はないことから、これは小根占の「雄川」の誤りであり、「小根占の雄川がハゼノキ伝来の土地である」とされています。

実は私もこの説を最も有力な説として以前のnoteで記載しているのですが、先にも書いた通り1639年には櫨の実に関する指示が出ていたり、慶安四年(1651年)には櫨の実の脇買いを禁止する指示が出ていたりします。
通常ハゼノキは実生で10年、接ぎ木で5,6年で実の収穫ができるようになることから1645年伝来とすると色々と辻褄が合わなくなります。

ではなぜこの説が一般論として最も浸透したのか?
実は2人の江戸時代を代表する農学者が関係しています。1人は佐藤信淵、もう1人はハゼノキの栽培奨励や利を説いた「農家益」を編纂した大蔵永常でした。両者はハゼノキの薩摩伝来に関して、この異国船渡来説をその著書や手記に記載しており、それが伝来説として広まったではないかと思われます。

異国船が渡来した雄川上流の「雄川の滝」

■結局いつ伝来したのか?

以上の3説を総合すると、おそらく正解に最も近いのが①の禰寝重長説であろうと考えられますが、明国からではなく琉球から取り寄せ、小根占に植樹したと考えるのが自然と思われます。これは後日解説するハゼノキ最初の指南書である「窮民夜光の珠」(1747年)でも「九州に流行の事は琉球国より薩州領に渡りし」という記載があることから推察することができます。

そのうえで疑問がいくつか残るのも事実であり、こちらは継続して調査していきたいと思っています!
【疑問①】
1590年以前に禰寝重長はどうして「ハゼノキ」から蝋が取れることを知っていたのか?知らなければ取り寄せてはいないはず!
【疑問②】
持ち帰ったハゼノキはどこでどうやって育ったのか?小根占のハゼノキの記述が出てくるのは1680年代になってから。100年近く何をしていたのか分からない?

小根占(現南大隅町)の碑文

もしかすると、根占と明との交易のなかで蝋が採れる木の存在を知り、琉球にあったよく似た木を取り寄せたのかもしれません。さて来週からは薩摩藩のハゼノキ政策の実態に関して書いていこうと思います!ハゼノキのパイオニア薩摩藩はどのような政策を実施していたのか!?お楽しみに!


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