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黄櫨染と2つのハゼノキ

みなさんこんにちは!今年もあと一週間を切りましたが年末年始はどうお過ごしでしょうか?ハゼノキに関して書き始めたこのnoteも今回が25回目になり、無事1年を迎えることができそうです。いよいよ今年の投稿もラストになります。ちなみに先週は詩として詠まれてきたハゼノキに関して書いてみました。そんな記事はこちらから。

今週は先週の最後でも少しお話した「2種類のハゼノキ」に関してです。結論を先に書くと「実を取るためのハゼノキ」と「染め物の材料としてのハゼノキ」です。前者が今も残る品種であり、後者は自生種として今も残っています。実を取るためのハゼノキでもう染色はできるため、もはや分ける必要もない気もしていますが、ハゼノキの歴史を探訪する意味で書いておこうと思います。という事で今回は考察回です!

■黄櫨と黄櫨染とハグマノキ

さて、現在ハゼノキを使った染色は一般的に「黄櫨染=こうろぜん」や「櫨染=はじぞめ」と呼ばれており、材料もハゼノキを使用しています。ところが牧野富太郎博士の「植物一日一題」によると「黄櫨=こうろ」とは別の樹木の名をさしていると記載されています。本書によると「黄櫨=こうろ」は古来から黄櫨染の材料にされていましたが、実はこれは「ハグマノキ」と言う別のウルシ科の樹を指しており、中国ではハグマノキを昔から黄櫨と呼んでいました。実はハグマノキもハゼノキも芯が黄色になっており、同じく染め物の材料として使うことができるため、いつからか混在するようになったのではないでしょうか。

このため、中国における黄櫨染とはこのハグマノキを使用した染色方法であったと推察されます。ちなみに中国における「黄櫨染」はおそらく現在の私たちが目にする色とは違っていると思われます(この辺は継続調査)。隋の楊堅(文帝)が黄色の服色を最上位と定めて以降、清に至るまで歴代皇帝の黄袍は結構真っ黄色なので、染色材料の違いが影響しているのではないかと考えています。では、なぜ黄色が最上位なのか?に関してですが、これには五行説の考え方が大きく影響しています。五行説は方位と季節にそれぞれ色が割り当てられていますが、その中心が「土=黄」のため万物の中心を治めるという意味合いも含めてこの色が採用されたと考えられます。

※話はそれますが、七夕の短冊の5色もこの五行説によるものです。

■野漆樹としてのハゼノキ

一方で日本で「黄櫨染」が使用された記録は、「日本後記」によると嵯峨天皇が弘仁11年(820年)正月に使用されたところから始まります。ところがハゼノキは江戸時代にようやく薩摩に伝来してくるので、この時代に使用されていた「黄櫨染」は現在私たちがみているハゼノキとは違いうものになります。染色したものを唐から輸入していたとも考えられますが、平安中期の「延喜式」にその染色方法が記載されていることから日本独自の染め方が初期から完成していたことが伺えます。では材料となるハゼノキはどうやって調達したのでしょうか。

(写真は自生したハマヤゼ)

その答えは、延喜式と同時期に編纂された「和名類聚抄」によると黄櫨=野漆木とあります。つまりこの時日本には野漆樹というハゼノキがあったことになります。時代が飛びますが江戸時代に編纂された「古今要覧稿」にも野漆木は天梔弓の材料や紅葉木として紹介があるため、現在のハゼノキとは別種つまり日本の固有種としてのハゼノキが存在していたと示唆する事ができます。つまり日本における「黄櫨染」は日本独自の材料を使った日本独自の染色方法であると言えるのではないでしょうか?

一方でこの日本固有のハゼノキは「ヤマハゼ」で現在統一されており、識別が困難になっているのも事実です。いずれ野漆木と書かれていたハゼノキを発見したいものです。

■紅包樹としてのハゼノキ

最後に現在私たちが目にするハゼノキに関して。こちらは「紅包樹」ともよばれ、見事な紅葉がこの名前の由来と思われます。これまで延々お話してきたのはこの紅包樹といわれるハゼノキに関してです。この樹が17世紀に薩摩に伝来し、その後西日本諸藩の財政を多いに助ける事になりあす。その一方で、黄櫨染に関しては現在ではこの「紅包樹」を活用されており、見事な彩をみせてくれます。

平安時代には成立していた黄櫨染ですが、実は江戸時代には途絶えていたと言い、明治以降に改めて復活したとの話もあります。この時点ですでに染色材料は「野漆木」から「紅包樹」に代わっていたのかもしれません。今世天皇が即位礼正殿で直用された黄櫨染御袍に関しては厳密は染色方法は公開されていませんので、実は専用の野漆木を育てている場所があるのかもしれません。

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