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田中善吉と和歌山の葡萄櫨

みなさんこんにちは!今週は和歌山県のハゼノキに関してお話します。ハゼノキの品種は30種類ほどあると言われており、そのほとんどが九州で生れた品種ですが、「葡萄櫨」は和歌山県で生れた固有種になります。先週は地域で親しまれているハゼノキに関して書きましたが、「葡萄櫨」も地域で親しまれているハゼノキです。そんな先週の記事はこちらから。

さて、そんな「葡萄櫨」ですが、実は多くのドラマを持っています。紀州藩にハゼノキを持ち帰った田中善吉、葡萄櫨を発見した吉瀬勇三。そして一度は無くなってしまったと思われていた葡萄櫨の原木を発見したりら創造芸術高等学校の生徒と先生。今日はそんな和歌山の葡萄櫨に関するお話

■田中善吉、ハゼノキを持ち帰る

田中善吉。紀州藩の有田郡箕島村(現在の有田市)の藩士であり商人。船を八隻所有し博多方面との商いも行っていたとされています。この善吉が紀州藩の命を受けて薩摩に旅立ったのが、元文元年(1736年)の10月。甘庶の育成方法と製糖技術の取得が目的でしたが、善吉はこの時にハゼノキの存在を知り、その有用性に大きな可能性を見出すことになります。結果紀州への帰国までに櫨の実を購入し、育成方法と製蝋方法を合わせて持ち帰ることになります。善吉はさっそく藩主にハゼノキの育成を嘆願し、1737年紀州におけるハゼノキの栽培が開始されるのです。

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善吉は箕島で播種を成功させると、有田、海士、日高を巡回してハゼノキの育成、増殖をしていきます。1747年には打廻りとなり、伊都、那賀、名草を含めた6郡へハゼノキの育成を指導をおこない、さらに数を増やしていきました。この結果、1752年には紀州藩全体で224,268本ものハゼノキが植えられる状況となります。余談ですが、紀州藩におけるハゼノキや木蝋の生産に関する嘆願は全て善吉を通じて藩主へ申し出される事になっており、紀州におけるハゼノキ、木蝋産業の発展の功績にいかに善吉の影響が大きかったかを物語っています。

1767年73歳で亡くなるまでハゼノキの育成と木蝋産業の発展に尽力した善吉。和歌山における「ハゼノキの父」ともいえるその功績は、没後田中神社が建立され、現在も箕島神社の一角に静かに祀られています。

■葡萄櫨の発見と天然記念物の抹消

善吉没後の約70年、紀州藩でハゼノキにおける大きな発見がありました。志賀野松瀬(現在の紀美野町)の吉瀬勇三が通常よりも大きな実がなる一本のハゼノキを発見します。のちに「葡萄櫨」と名付けられる新種の発見でした。この葡萄櫨からとれる木蝋は色調がよく、和ろうそくでも上掛け用の品質の高い木蝋として重宝され、通常よりも高い価格で取引されることになります。結果、紀州蝋は高級品として全国にその名が広まる事になります。

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そして、この記念すべき「葡萄櫨の原木」は、発見者である吉瀬勇三の孫にあたる吉瀬善次郎によって原木の保護もかねて天然記念物として登録されることとなります。その後、地域としては戦後まで木蝋産業が残った数少ない地位ではありましたが、エネルギー転換や電気の普及の波には勝てず、和歌山の木蝋産業は徐々に衰退していきます。そして昭和33年。指定文化財の継続申請がなされなかったことから天然記念物から抹消されることとなります。

■原木の天然記念物再登録へ

その後「葡萄櫨の原木」はハゼノキの歴史と共に表舞台から消えていくことになります。しかし、すでに枯死していたと思われていた葡萄櫨の原木ですが、2016年止まっていた時計が動き出します。地元のりら創造芸術高等学校の地域デザイン科のフィールドワークとして地元の方への聞き込みを行なわれ、その結果「葡萄櫨の原木」はまだ現存する可能性が示唆されます。

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その場所は、かつて吉瀬勇三が葡萄櫨を発見した志賀野松瀬だったのです。フィールドワークを通じて、りら高校の3人の女子高生と先生は竹林に埋もれた一本の樹を発見することになります。発見された樹は、近畿大学や研究機関、近隣の高校の調査協力も得、登録当時の原木写真や文献との比較、成長度合い、そしてDNA検査を経て2020年。かつて登録されていた「葡萄櫨の原木」と同一であると認められ、天然記念物に再登録される運びとなりました。

地域の産業をフィールドワークを通じて学ぶユニークなプログラムを通じて葡萄櫨の原木を発見したりら高校のみなさん。その発見を連携して証明した地域の関係者。とても素敵な繋がりだと感じました。原木のある志賀野には「ブドウハゼの里」の看板が。これもハゼノキが地域に親しまれる樹になれる証ですね。

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