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自己紹介〜これまでの仕事を振り返る〜(①営業編)

25年4ヶ月サラリーマンをしてきたのですが、これから独立して個人としてもやっていく中で僕が何ができるか皆さんわからないと思いますので、「何をしてきたか」について書きたいと思います。(長文になります)


第0期 営業編

1999年4月 文化放送に入社。同期は僕を入れて5人。カトウくんが同期を代表して入社に際しての意気込みを読み上げていました。覚えているのは「1999年7の月にアンゴルモアの大王が降臨する年に我々は入社〜」のみ。僕は恥ずかしいなぁと思いながら聞いていましたが入社式列席の役員には、やや受けていました。

入社して最初の配属先は営業局業務部スポットデスク。
スポットCMの入力、管理が仕事でした。とは言え、一番の仕事は電話番。
社内の人の名前も覚えていない中で、電話に出ると相手が誰かもよくわからないし、誰に取り次げばいいかもわからない。入社して1週間後の部の会議で部長から「ルーキーの内田くんから入社1週間経っての今の感想を聞こうかな」と言われて、「電話に出るのが怖いです」と、やや受けも狙って言ってみたら部会終了後に部の先輩が総務の人を連れて僕のデスクにやってきて「電話が出られないなら電話要らないよね」と言って電話機を取りはずす作業に着手。びっくりして何も言えなかったのですが仕事を教えてくれていた先輩がすぐに「内田もこれからスポットデスクとして外の広告代理店とやりとりしていかないといけないから電話外されたら困ります」と取りなしてくれて電話をはずす作業はいったん停止。

軽々しいことを言うべきではないなと社会人1週間目にして肌身で感じました。

スポットデスクは営業マンが受注してきたスポットCMを機械(営放端末EDPS)に登録して「線引き表」を出すのがメインの仕事でしたが、それ以外にスポットCMの売上状況を営業マンに伝えたり、外部の広告代理店のラジオ担当の方にスポットCMを売ってもらうために現在売り出し中のスポットCMの企画書を案内したり、文化放送の近況や情報も入れた「スポットデスク新聞」なるものを作って毎週金曜日に取引のある全代理店にFAXしたりしていました。

景気もよくなく(?)あまり線引き作業が忙しくなかったので、よく先輩に連れられて広告代理店に直接訪問していました。
大手広告代理店のラジオ担当者は、割と若い社員(入社1〜3年目くらい))が多く、同じく新人だった僕としては話のしやすい年代の人が多かったです。文化放送では、だいたい新入社員が入ると制作部かスポットデスクに配属。スポットデスクに配属された人間は2〜3年で、外に広告を売りに行く営業部に異動するというのがだいたい定番のルートになっていました。僕もスポットデスクの後は営業部に異動になったのですが、営業マンとしていく先に見知った顔がすでに何人もいる状態というのは心強かったです。そういう意味でも顔を売るために「スポットデスク新聞」というのもあったのかなと思います。まだワープロで作った文章をFAXで送る時代でした。

スポットデスクに配属になって半年後、10月〜11月頃に営業部に異動になりました。本来は、もう少し長くスポットデスクをやらせようと会社も考えていたと思いますが、営業部の社員が1名退職するということで、その補充として異動することになりました。

最初の仕事は、ライオンズナイターゴルフ会の幹事(のお手伝い)でした。
野球もゴルフも興味がないなかスポンサー接待という要素もあって異様なプレッシャーの中、あっちこっち走りまわった記憶だけあります。
ついに、大人の世界にデビューした感がありました。

営業では、新人であまり大きなクライアントは任せられないということで担務は少なく、余った時間は新規クライアント探しをしていました。
1999年〜2000年はインターネットが広がっていた時期だったので、僕もそういう業界に興味もあり、直接電話でアポイントを取ったり、電通、博報堂、東急エージェンシー、アサツーDK、I&S BBDOなどスポットデスク時代から出入りしていた代理店に伺っては自分が考えた企画書を持っていて提案していました。

ひとつ覚えているのは、当時、niftyがいくつかのジャンルごとにポータルサイト(カーセンサーとか財テク投資系など)を運営していて、そのジャンルに興味関心の高いファン向けのサービスをしていたので、そことラジオ(番組、パーソナリティー、リスナー)を組み合わせたコミュニティを作ることでniftyに番組提供してもらえないかと考えて企画書を作ったことがありました。
niftyとの営業窓口のあった電通に持っていて割と良い反応だったので、企画の値付けを決めないといけないということで会社に持ち帰って相談しました。当時の上司はしばらく考えたのち「この企画は1000万円で売れるかもしれないけどシステムに2000万円くらい費用がかかるからダメだ」と言われました。ラジオ番組の制作費は別としてインターネット部分は新規に何かを作るわけではなくて、すでにあるものを利用するので開発費等はかからないと考えていたのですが、結局、それ以上は話をすすめることができずボツになりました。
今なら、人とのやりとり説明の仕方もわかったし、ある程度信用もあると思うので、もう少し違うアプローチもできたような気もします。
当時は、単純にボツになったことが残念でした。同じようなことがちょこちょこあって、そんなことがあると、アサツーDKという広告代理店に行って愚痴っていたのですが、担当のシミズさんは黙って話を聞いてくれたのち「面白いアイデアですね。いいと思います。企画が通らなくて残念でしたね。内田さんみたいな人がなんで文化放送に入ったの?LF(ニッポン放送)とかに行けばよかったのに」と言ってくれて、「そうか、僕は文化放送っぽくないのか」と思い、企画が悪かったわけではなく「ニッポン放送だったら通ったのか」と単純に思って再びやる気もでて新しい企画を考えたり、ニッポン放送とか他局の中途採用を探したりしました。募集はありませんでした。

営業部では、そんなことがありつつも、社会人一年目で何事も新鮮で、また社内も社外も新人ということだけで結構可愛がってくれたので、仕事の成果は出ないまでも働くこと自体は楽しかったです。

そんな感じで迎えた2年目、2000年12月からBSデジタル放送でラジオが始まるということでBSデジタルラジオ放送のプロデューサー社内公募がありました。ラジオだけど受信機が家庭の大型高画質テレビになるということで、音声については長年の経験もあるけど映像については何もノウハウもないということで年齢経験問わず、やりたい人募集ということで文化放送初の「社内公募」実施となりました。

僕は営業部から異動したかったわけではなかったのですが、こういうお祭りに参加しないのも放送局の人間としてノリが悪いだろうと思い応募しました。

提出した企画書は「世界のスパカン」でした。

当時、文化放送で「フライデースーパーカウントダウン50」という音楽リクエストチャート番組が放送されていて人気も高かったので、その世界バージョンをやりますというのが企画の骨子でした。
僕はそこまで音楽ファンというわけではなかったのですが、音楽自体は世界中にある中、今、この瞬間、世界のいろいろな土地で流行っている音楽をまとめて聴けたら面白いのではないかと、完全に野次馬的な感覚(?)で企画書を作りました。

日本、アメリカ、ヨーロッパくらいまでは売上チャートも出ているかと思いますが、さらに中国、東南アジア、インド、アフリカ、マダガスカルなどなどの今週のベスト10が立て続けに聴ける、今の世界の音楽シーンを、実際に高音質の良い音で毎週聴ける…これはテレビでもないだろうと思いました。

BSデジタルラジオ放送の売りは

  1. CD並みの高音質

  2. 全国放送

  3. 静止画ないし簡易動画の送信、データ放送が可能(受信機は高画質大型テレビ)」

  4. だったので映像素材は各国の観光局から風景写真を借りてきて、それをテレビの大画面に出しながら、その地のヒットソングをかける…という構成にしていました。(ex.タヒチのヒット曲を聴きながらタヒチの美麗な風景を楽しむ)

1時間アジア、1時間ヨーロッパ、1時間アメリカ大陸、 1時間アフリカ大陸みたいな分け方にして計4時間の生放送でお届け。

BSデジタルラジオは、それに対応したテレビ、もしくは10万円ほどするデジタルBSチューナーを買わないと見れないものだったので、上記のようなリッチな体験ができる(世界の音楽と風景を同時に長時間楽しめる)コンテンツが、そういう購入層にニーズがあるのではないかという仮説でした。

プレゼンの結果、企画採用。
BSデジタルラジオの番組制作担当の部署であるデジタル事業局に異動することになりました。2000年8月のことでした。

(続く)

第1期 A&G編

第2期 エクステンド編




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