「マダニと夜」

"びっこを引いて、三歩前に出て、嫌いなやつを名乗ってさあ歌いましょう" 最低な歌が都会の路上のシンガーソングライターによって陽気に歌われている。

それを気にも留めない風を装って、都会の人間たちは足早に通り過ぎていく。意味のない時間に付き合う余裕は無いという感じで都会の人間たちは過ぎ去っていくけれど、一人サムネイだけは態度を異にしていた。

サムネイはタイからの留学生であり、ポケットのたくさん付いたバックパックを背負っていた。嫌いな食べ物はパクチーで好きな食べ物はフィッシュアンドチップスであった。最低な歌が聞こえてきた時、それは彼に不快な印象を与えた。不快な印象は神経系に同じく不快なものとして受け取られ、彼は不快な気分に陥っていく。それは身体的な影響も少なからず与える。サムネイは便意を催して近くのコンビニエンスストアに飛び込む。その不快な音楽が遠ざかるのを感じながら、便意が収まるのを感じる。そして、またコンビニの外に出ると歌が聞こえ、便意が襲ってくる。店内に入ると歌が聞こえなくなり便意が無くなるというのを何度か繰り返して、結局トイレには入らず彼はその場を立ち去った。

その様子を見ていた浮浪者が笑った。浮浪者の髪にはマダニが付いていた。そのマダニは総理大臣の邸宅で、総理大臣の息子の足の血を吸っていた高貴なるマダニである。マダニなのに髪についているとはどういう了見だ、と仮想の江戸者が怒鳴りかかる。どういう了見も何もこれが真実ですから、と現代東京の大手旅行代理店に勤める営業の男が必死に取りなす。マダニは浮浪者の頭から通りがかった大手旅行代理店の男の持つコーチのビジネス鞄の中に飛び移った。

大手旅行代理店の男は仕事を終えたその夜、都内のバーで女と会っていた。大手旅行代理店の男には妻子があり、息子は昨年生まれたばかりのまだ一歳に満たない赤子で、妻は育児にかなり疲弊しているようだ。そんな中での女との密会に大手旅行代理店の男は大きな罪悪感を抱いていたが、妻の妊娠が判明した頃から付き合い始めた九つも年下の大手商社の受付嬢として働くその妖艶な女に心も体も骨抜きの釘付けにされていた。大手旅行代理店の男のコーチのビジネス鞄の中では、マダニがうたた寝を終え、うごめき始める。都内商社の社長たちが集まる大規模ゴルフコンペの旅程表が印刷されたA4の紙は、鞄の中でクリアファイルに包まれているが、そのクリアファイルの間に入り込んだマダニはその紙をゆっくりとその小さい顎で食い始めた。明日、大手旅行代理店の男はオフィスに寄らず、女が受付で待つその大手商社に立ち寄るはずであった。クライアントとして取引をしているその商社に提出すべき旅程表が端の方から食われていく。女は目を光らせ脚を組んで太ももを露わにすることで、大手旅行代理店の男から才気を奪っていく。大手旅行代理店の男は、一杯二杯とグラスを空けていく。七杯目のグラスを飲み干してデッキに置いたところで、鞄の中の旅程表は三分の一ほどがマダニに食われてしまった。マダニは紙を食って、五倍にも六倍にもその体積を肥大させていて、その大きさはもはや小さなゴキブリほどまでになっていた。大手旅行代理店の男はそんな鞄の中の様子には全く気付くこともなく、顔を赤らめて饒舌に明日の予定を女に聞きながら距離を縮めようと躍起になっている。


大手旅行代理店の男の妻はそのとき、赤子の寝かしつけをやっとの思いで終えたところであった。時刻は十時。夫は夕方に「遅くなる」と一通メッセージを寄越しただけで一向に帰ってくる気配が無い。大手旅行代理店の男の妻は全く嫌になってしまった。一風呂浴びると、隈に覆われたその眼を励ますようにメイクをし始めた。そして良くない生活をしている女友達を二人自宅に呼んで、赤子を起こさないほど静粛なパーティーを始めた。女たちは音も立てず、いたずらを企む小学生のように首をすくめながら静かに笑い、大手旅行代理店の男の浮気を痛烈に非難しながら、愉快に夜を過ごした。ポテトチップスの袋は盛大に開けられ、コカコーラの2Lペットボトルは豪勢に泡を吹いた。女たちの酒を持たぬ宴が、赤子の気持ちよさそうな寝顔の下階で重ねられた

そのとき、大手旅行代理店の男の手の上に、手が重ねられた。それは紛れもなく大手商社の女の長く赤いネイルを施した手である。大手旅行代理店の男はすでに女を手玉に取ったものと思い込んでいる。女は優雅に笑っているが、実は腹が減りすぎて正常な思考を失いつつある。早く油まみれの豚骨ラーメンを食いたいとしか考えることができない。大手旅行代理店の男が絡めてきた指もパンパンに太ったチャーシューにしか見えず、口の中には唾液が充満する。女はもう両脚を組むのに全く抵抗感が無く、ざっくりと開いたドレスの胸元を男に見せることもどうでもいいことだとすら思い始めていた。そしてビジネス鞄の中をすでに終の棲家と決め込んだマダニはあらゆるものを食料と認識していった。契約書、名刺、口直しのキャンディ、皮財布などがその対象である。マダニは食べたことのないようなものまで食らっていたせいか、本来自分が食べるべきものが何かということを見失ってしまっていた。そして、浮浪者の頭から吸い取った血まで、胃の中に収まっている旅程表の紙に吸われてしまっていてエネルギー源はゼロに近い。マダニの意識は次第に薄らいでいって、大手旅行代理店のビジネス鞄の中で息絶えてしまった。そのとき、マダニの身体のサイズは鞄の底にへばりついたポケットティッシュほどにまでなっていた。大手旅行代理店の男は明日の予定などもすっかり忘れ、朝まで飲み明かすつもりでいた。大手商社の女は痺れを切らし、今から用事があるの、と深夜十二時に口から出任せを言って五千円札をデッキに置くと、大手旅行代理店の男の制止を振り切ってその場を退散した。

大手旅行代理店の男はそれから憔悴した様子でバーのマスターに心配されながら酒をあおっていった。十杯十一杯と飲み干したところでさすがにマスターが止めると、あのコーチの鞄から財布を取り出した。実は人指し指がマダニの死骸に触れたが、泥酔した大手旅行代理店の男は気付かない。バーのマスターは、コーチの革財布から取り出された一万円を受け取り、釣りはいらないよと一丁前なことを大手旅行代理店の男が言っているのを呆れるような気持ちで聞いていた。揉めるのも面倒なのでそのまま受け取る。そして、千鳥脚の大手旅行代理店の男の背中を見送ると、濡れたワイングラスをナプキンで拭く作業に戻った。マスターの位置からちょうど正面の窓ガラスに映る夜景からは、ライトアップされた深夜の国会議事堂が見える。

今夜は法案決議で国会議事堂は大いに揺れ、デモ隊が大挙して議事堂前を占拠していた。総理大臣は、マダニに尻を噛まれた息子の容態があまり芳しくないという妻からのメッセージを開き、そんな馬鹿な、と思っていた。マダニでそんな重症になるわけがない、いや待てよ、でも世界で最も人を殺している生物は蚊だというじゃないか、血液を介して人に接触する生物は皆危険なのかもしれないな、と普段は対決姿勢を鮮明に打ち出しているマスコミから仕入れた知識を参照している。つまり、決議に集中していない。総理!と野党議員から指摘が飛んでくる。はっと気付いたときには総理大臣は指摘の内容も理解できず、野党議員に詰め寄られている。

総理大臣の息子は国会議事堂から目と鼻の先の病院でマダニの媒介した血から生じた病と闘っていた。総理夫人がファーストレディらしからぬ必死の形相で、額に汗して息子の看病に勤しんでいる。子を持つ親の気持ちは皆同じである。

そのマダニは今、総武線の終電に揺られる泥酔した大手旅行代理店の男の持つコーチの鞄の中で息絶えている。大手旅行代理店の男は目を瞑っているが、満員の車内で押しつぶされるようにしてガラス窓に頬を押しつけた。同じ総武線の反対方向へ向かう電車に乗った大手旅行代理店の妻の女友達二人のいる位置からもその大手旅行代理店の男の無様な姿が見えたはずだが、二人は気付いていない。女二人は大手旅行代理店の男の自宅でのささやかな宴を終え、帰途に就いていた。名前をそれぞれウミエとサナエといった。ウミエはそろそろ酒を飲みたいらしく、一杯行こうぜと呼びかけたが、サナエはまた今度にしようと言った。大手旅行代理店の男の妻も交えた時にしよう、と。それもそうね、とウミエは良くない生活に戻ろうとしているのに、笑顔を浮かべた。

その寂しそうなウミエの笑顔を見て、祖国の母親を思い出すようだ、と思っているのがタイからの留学生・サムネイだ。今日は同じ留学生仲間たちとはしゃいでいて楽しくなって飲みすぎた。こんなに遅い時間に帰るとホストファミリーに叱られるに違いない。いや、彼らはサムネイを叱ったことはない。だから今日も大丈夫だろう、とサムネイは高を括っていた。ホストファミリーの一人娘の名前をサラといった。川の流れのようなその名前をサムネイは気に入っていた。こんな遅い時間にもサラは起きているのだろうか。サラはいつも遅い時間まで起きていることで家族の中では有名であった。それをサムネイも一緒になってからかっていたのに、今日は僕が一番最後だな、といかにも寂しい笑い方をする。彼は日本人であるサラに恋をしているのかもしれなかった。それはサムネイ自身にも確信が持てない。サムネイはむずがゆい思いを抱えながら、目の前に立っている故郷の祖母と同年代の女性に座席を譲った。

座席を譲られた女性の名前はキヌ江といった。夫に先立たれたキヌ江は、夕方六時に寝て夜十一時に起きるという生活をここ十年繰り返している。深夜に家を出ると二駅分だけ終電に乗って、そしてそこから自宅まで歩いて戻るのだ。一見意味の無い行動だが、キヌ江にとってはあまりにも長い独りの夜を、都会の喧噪に少しでも身を浸して過ごせるかけがえのない時間となっているのだった。終電には都会の雰囲気を醸した人々が次々と流れ込んできて、キヌ江はそれを見るのがたまらなく好きであった。そして、二駅だけ乗車する間にこんなに疲れた人たちに座席を譲られることで、どうしてもいたたまれない気持ちにもなるのだった。キヌ江は電車を降りると、そこから八十四歳とは思えない足取りで歩き始める。後ろから先ほど席を譲ってくれたサムネイが通り過ぎる。彼は気付いていないだろうが、キヌ江は少し気まずくなり、追いつかないように歩調を緩める。サムネイが見えなくなったとき、いつものベンチに辿り着く。いつもの浮浪者が段ボールと新聞紙にくるまって穏やかに寝ていた。あの、大手旅行代理店の男の鞄の中に飛び込んだマダニの元宿主である。キヌ江は浮浪者を起こさないように、ゆっくりと近づき、巾着袋から新聞紙に包んだ大福を取り出す。大福を新聞紙に包んだままベンチの下にお供え物のように置いて、お辞儀をしてからゆっくりとその場を立ち去った。それがキヌ江の長らくの習慣であった。キヌ江は充足感に満たされていた。浮浪者の着る衣服から大福の入っていた巾着袋へ、マダニの一匹が飛び込んだのにも気付かないくらい、それはそれは満たされていた。

"びっこを引いて、三歩前に出て、嫌いなやつを名乗ってさあ歌いましょう" 深夜だというのに、最低な歌が都会の路上のシンガーソングライターによって陽気に歌われている。

駅を降り一人ゆっくりと歩いていたサムネイは、その歌を聞くと急激に便意を催し、近くのコンビニへ駆け込んだ。

浮浪者がベンチの下の大福にも気付かず夢見心地で幸せそうにふと笑った。

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